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映画の中の障害者 福祉の道を歩んできた大学長の映画レビュー

第4回:「豊かな国」を 目指して置き去りにされるもの

膵臓ガンのために亡くなった本学教授(2008年当時)丸山一郎さんを「偲ぶ会」が開かれた。亡くなった3月の通夜、葬儀の参列者は1000名に及んだが、夏を迎えてなお、200名近い友人たちが故人のために集った。

丸山一郎さんは、文字どおり、障害者のリハビリテーションにその生涯を捧げた人だ。「福祉工場」の先駆けとなった「別府太陽の家」の立ち上げに始まり、葛飾の福祉工場では所長を務め、その後、厚生省の障害専門官を経て、日本リハビリテーション協会の国際部長、そして、保健医療福祉の人材を養成する埼玉県立大学の立ち上げに参画された。彼のリハビリテーション論の真髄は障害のある人たちの権利と尊厳を回復することであり、具体的には雇用問題に取り組み、その成果の追求のために国際的なネットワークを拡げた。そして、余命告知があった後も痛みと闘いながら、障害者雇用施策における我が国政府の無策をILO(国際労働機関)に提訴する文書を病床で完成させるなど最期までその生き方を貫いた。

こころの湯:東京テアトル/
ポニーキャニオン

そんな丸山さんは無類の映画好きだった。しかも、生家は信州・松本の映画館だから筋金入りだ。だから、彼とは福祉の仕事のことだけでなく映画についてもたくさんのことを語り合った、といっても教えてもらうことばかりだったのだが。もう7、8年ほども前のことである。出張先のニューヨークの書店で見つけたというお土産を買ってきてくれた。「SHOWER(中国映画、邦題『こころの湯』)」のDVDである。我が国では、あまり話題にならなかったが、お互いに「悪くないね」と評価が一致した作品でもあったので、例の笑顔で「すごいよ、アメリカじゃもうDVDになっていたよ」とちょっと自慢気だった。

中国は、この夏のオリンピックで沸きたっている。東京から遅れること44年、ソウルからも20年も待たねばならなかったオリンピックである。その「怨念」を晴らすだけでなく、今やその堂々たる大国ぶりを世界に誇示するために絶対に失敗は許されない。しかし、あの異様な聖火リレーの発端となったチベット暴動に見るように、どうにも隠しきれない闇が見え隠れしている。四川省の大地震でも、学校の多くが倒壊し無数の子どもたちが犠牲になった原因の一つに手抜き工事が指摘されている。現代中国には繁栄、発展というかけ声に踊る「拝金主義」という妖怪がのたうち回っているように見える。

だから、「こころの湯」のような映画を通して、豊かに生きるとはどういうことか、今の中国がまっしぐらに進んでいる道のその先にそれは用意されているのか?ということを改めて考えてみたい。いかにもありふれた問題提起のようではあるが、つい最近封切られた「いまここにある風景」というドキュメンタリー映画(2006年)が映し出す中国の現実はこうした問題を陳腐化させてはならないことを訴えている。

1999年制作の「こころの湯」はその先駆け的な作品であったともいえる。胡同(フートン)と呼ばれる北京の旧城内に点在する下町のとある銭湯を舞台にした物語である。オリンピックの開催も決まった頃なのだろう、急激な再開発工事によって古い町並みは取り壊わされることが決まっているが、人々は相変わらずのんびりと銭湯を楽しんでいる。「清水池」という昔ながらの銭湯の経営者には知的障害のある次男がいる。長男は、南部沿海地帯の工業都市でビジネスマンとして成功しているらしい。そんな長男が久方ぶりに帰ってくるのだが、彼は相も変わらぬ下町の暮らしぶりに何となく馴染めないものを感じている。おそらく、こういう暮らしから抜け出したくて家業を継がなかったのだろう。父は父で長男の帰省に喜びながら、どこか打ち解けることができないもどかしさを感じている。

そんなとき、兄弟で外出するのだが、兄の不注意で知的障害のある弟が行方不明になってしまう。近所の人たちも総出で探してくれるのだが見つからない。そんなとき、父が長男に「おまえは一体何しに帰ってきた。ワシの仕事を見下すのはかまわん。しかし、おまえを失ったワシからアミン(弟)まで奪わんでくれ」と激しい言葉を投げつける。ビジネスマンとして成功しつつあるように見える息子が、もう二度とこの町に戻ることはないだろうという予感を「おまえを失った」と表現する父の愛情と、失われていく町並みを見つめながら、それは障害のあるもう一人の息子を確かに支えてくれた地域とその人々でもあるのだが、息子の未来を案じる父の気持ちの揺れは、あらゆるものを置き去りにしてでも繁栄だけを求め続けようとする中国の今を静かに批判するものに思える。映画は必ずしもハッピーエンドで終わらない。この兄弟は、特に奔放な弟のアミンは、この後、どのように彼らしく生きていけるだろう、中国が目指す「豊かな国」は、あるいは経済成長はそれを担保するだろうか。

ところで、北京五輪の後にもパラリンピックが開催される。1964年、東京五輪後に開かれた第2回パラリンピック大会は、我が国選手団が初めて参加した記念すべき大会だったという。冒頭に紹介した丸山一郎さんは、当時、慶応大学工学部の学生であったが、通訳ボランティアとして、この大会に参加したのだそうだ。欧米からの選手団は、みな職業を持った社会人アスリートであった。それに引き替え、日本のそれは施設や病院から駆り集められるようにして結成されたにすぎない、いかにも急ごしらえの選手団であった。オリンピックの華やかさの陰で多くの障害のある人たちが顧みられることのない時代だった。競技レベルはもとより、大会終了後の障害のある人々を待つであろう暮らしの格差に驚愕した丸山さんは、以降、障害者支援の仕事を志し一生を懸けることになる。一瞬の喜びも束の間に施設に帰るしかないことを悔やみ涙する日本の障害者と心中深く交わした約束を守り続けるために、丸山さんは生涯戦い続けたのである。映画をこよなく愛したそんな先輩が逝ってしまった。合掌。