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映画の中の障害者 福祉の道を歩んできた大学長の映画レビュー

第1回:君たちの癒しのために 生きているわけではない

シニアチケットというものがある。通常1800円の映画を60歳以上の「老人」は1000円に割り引いてもらえるのだ。昨年の夏、私も晴れてその有資格者になった。初めてのその日、窓口で「シニア1枚」と言いながら右手は後ポケットの免許証入れを握りしめていた。「お客さん。そんな年には見えません。何か証明するものをお持ちですか?」とチェックされることを恐れていたのである。しかし、窓口のバイトのお嬢さんは「はいシニアですね」とこともなげに発券しようとするのだった。自分ではどう見ても58歳にしか見えないと思っていたのに……。ちなみに映画は、マイケル・ムーアの『シッコ』であった。

シニアチケットが買えるのを嬉しがるように、趣味と言えば映画を見ることぐらいである。映画館よりもレンタルDVDが中心とならざるをえないが、新旧取り混ぜて年間100本近くは見ているだろうか。そんな私に、映画評論家気取りで文章を書かせていただく機会が与えられた。ちょっと気分がいい。

沢山の映画を見てきたが、ジャンルにこだわりはない。あえて言えば、「流行もの」は押さえておくという程度だろうか。それでも、仕事柄、「障害」あるいは「障害のある人」をテーマやモチーフにした映画は意識して見てきたつもりである。そこで、その中でも特に強く印象に残っているいくつかの作品を紹介しようと思う。

「障害」を取り扱った映画は、おおよそ「たくましく元気に障害と闘い乗りこえていく」か「障害をもつ人のために人生を捧げた人を讃える」かのいずれかに決まっていた。今でも、そんな映画やドラマが少なくない。しかし、だからといって必ずしも非難されるべきことでもなく、誰でもがそうであるように前向きに生き抜く姿は美しく眩しいと感動する。また、到底かなわないと思うほどの献身ぶりで障害のある人に手をさしのべる姿にも心を動かされる。ただ、いずれの場合も、そうしたやや「定番」ともいえる作品の前では私はどこまでも一人に観客にすぎないことを自覚する。そして、おそらくは世間の人々の多くも「いいものを見せてもらって感動しました」で終わってしまうことだろう。


二十日鼠:20世紀フォックスホーム
エンターテイメントジャパン(株)

ノーマライゼーションやインクルージョンなどを持ち出すまでもなく、時代は障害をもつ人を「彼ら」として、そうでない者を「我々」とするステレオタイプを超えることを求めている。であるとすれば、映画やテレビドラマも時代に追いつかねばならない。

二つとも旧い作品だが、『二十日鼠と人間』(1992年、アメリカ)と『八日目』(1996年、ベルギー)は、私の知識の範囲では定番の『愛と感動の物語』からの訣別する記念碑的作品である。『二十日鼠…』は1930年代の大不況のアメリカを舞台に貧困の中をはいずり回るようにして生きている農場労働者の物語である。知的障害をもつ相棒を必死にかばいながら農場を流れ歩くが、その彼も最後に力尽きて障害をもつ相棒に悲劇的な終末をもたらすことになる。知的障害者の無垢さえも受け入れることができない絶望的な貧困とそれ故の荒廃のリアリティが悲しい。この時代を書いた作品を数多くのこしたジョン・スタイベックの原作である。


八日目:アスミック

『八日目』は、ダウン症の青年が主人公を演じたことで話題になった作品だが、厳しい競争の果てに疲れ切ったビジネスマンがダウン症の青年との出会いの中で、癒されながら家族との絆を回復するロードムービーである。しかし、一方でダウン症の青年はついに居場所を見つけられないまま死んだ母の後を追って自殺する。その予想外の結末は、知的障害者の純粋さを「愛でる」ように,そして彼らとの関わりに癒しを求める現代社会の心性のおぞましさ切り取っているように見える。ダウン症の青年の自死は「僕は君たちの癒しのために生きているわけではない」「僕自身が僕らしく生きる場所はどこにもない」と告発しているように思えた。


海を飛ぶ夢:(株)ポニーキャニオン

もう一つ紹介したい『海を飛ぶ夢』(2004年、スペイン)は、さらに衝撃的に問題を提起した。頸椎損傷事故のために四肢麻痺となった主人公は、30年の「寝たきり生活」を経て自死を決意する。実直な彼の家族は父親、兄夫婦とその息子の誰もが彼に寄り添い支えてきた。彼が死を望むということは家族にとって受け入れがたい葛藤を生む。それでも、主人公は、裁判所に安楽死とそれに伴う免責を求める。彼は四肢麻痺のため自らの命を絶つことが出来ないからだ。もちろん裁判所は却下し、高名な宗教家も説得に向かう。「障害と向き合い闘っている人と神への冒涜だ」という神父の批判は正しいかも知れないが、なぜか陳腐にしか聞こえない。むしろ昂然と死を選ぶという主人公の「雄々しさ」や「誇り高さ」が見え、あらゆる正論が色あせてしまうことで、長年「援助者」を自任してきた私は慄然たる思いに襲われる。今でも、「このような体でこれ以上生きている意味がない」という彼の言葉をどう受け止めるべきか悩んでいる。しかも、これは実在の人物の物語である。彼は思いを遂げ、「巧み」に誰も巻き込まず「見事」に死んでいったそうだ。

以上の3編は、いずれもが従来の「障害者映画」の王道ではない。感動とか涙とかとは全く異質でありながらしかし心が震えるような感慨を抱え込む作品である。「彼ら」と「我々」という立ち位置から映画も変わりつつある。かくして映画が時代に追いつきつつあるとすれば現実も負けてはいられない。