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 こんにちは。

 この前の算数の続きを書く気になったというか、MOBLOGKUNを試したいと思ったので。

 では続きです。

 それで、わりざんもかけざんのときと考え方は同じで、

 10割る5というのは、10の中に5がいくつ入ってますかということで、答えは2ということになる。

 同じ考え方で

 10割る0.1は10の中に0.1がいくつありますかということなので、100こありますということで、解決。

 つまり、いくつ入ってますかという風に考えれば、小数でわると、答えが増えるということは解決するとこどものころは
結論をだしたような気がしています。というか、これが本来のいわゆるわりざんの考え方なのかもしれませんね。

 いままでずっと、自然数だけの世界で、かけざんやわりざんをやってきて、みかんを分けるとか、林檎がいくつか入っている袋を
4袋かったら林檎は全部でいくつですか?ということをやってきた子どもにとって、
「かけざんはかならず増えて答えがでる、わりざんは答えが少なく出るものだ」と
もう体に染みついているのだ。そこに出てきたのが小数を含んだかけざんわりざん。これだといままで体に染みついてきた概念とはまったく反対の現象に
なってしまうのだ。これは戸惑うのは当然かもしれない。

 体に染みつくと言えば、かけざんは交換しても答えはまったく同じということはだれでも無意識にやっている。

つまり5*6も6*5も同じ答えということは、もうたぶん大人は遺伝子レベルで染みついているのだろう。

「なにをいまさら」といわれそうだけどさ。

 でもこれ、よく考えると当たり前でないような気もしてくる。

 例えば

 5*6というのは、5を6回たしざんしなさいということだよね。つまり

5*6=5+5+5+5+5+5=30

ということだ。

 次に、同じように、6*5は6を5回たしざんしなさいということ、つまり

6*5=6+6+6+6+6=30

である。

 ここでよく考えて下さい。上のように、5を6回たすことと、6を5回たすこととは、同じ答えになりますか?と聞かれて、すぐに「はいなります」といえますか。

私はすぐにはいえない。もちろん、かけざんは交換しても答えは同じだからという事実をいやというほど体に染みついているから、即座に同じですとこたえられるけれども、もしいまあなたが
かけざんというものをまったく知らないで、上の5を6回たすことと、6を5回たすことと同じですかと
聞かれたらどうだろうか。「それは実際に両方とも計算してみて、答えを比べないとわからない」というのではないだろうか。

 数学の世界にはいると、行列というものが出てきて、この行列というもののかけざんの場合は、交換するといっぱんてきには同じ答えにならない。
また、循環群というものは、何回かかけざんをすると、元の値に戻るというものが出てくる。
つまり円周を歩いて来たら再び同じ位置に戻るということと同じ。

 行列や、群の世界のかけざんと、上の自然数などのかけ算の世界を比較すること自体がナンセンスなのだろうけれども。

 数学の世界では、まあ逆にしても同じにはならない世界があるらしいということがわかればよいのさ。だからどうだという話ではない。
どうでもよいことではある。

 話は戻るけど、かけざんは交換しても答えは同じだよということは、大人はいやというほど身にしみているということだが、これは
これは何度も何度もドリルをして、先生に理不尽に怒られて体に染み込ませたものだ。
実に教育という物は恐ろしいものだよな。何度も繰り返してそして、怒って教えると
それが当たり前だと思えてくる。
「おまえの前にいる奴はおまえの敵だよ」と繰り返して教えられれば、敵になってしまうのだ。

 逆によい方にこの繰り返しということを利用すれば、語学はかなり行けるのだと思う。
語学はやはり繰り返しだということかな。
 でもさ、いい大人になっちまうとこの繰り返すという行為ができなくなってしまう。

「もうわかったからだいじょうぶ」と思ってしまう。実はまったくわかってないのにさ。

 こんにちは。

 いまの小学生の教科書などを見てないのでどんな内容なのかまったくしらないのですが、もちろん算数の事業というものはあるでしょうね。

小学生までに最低できなければならない計算には、分数の計算というものがあるのだと思う。

これができるかできないかがその後大きくというか、全面的に左右するのだと思う。

私は通分というものをならったとき、「すごい」と少し感動した記憶がおぼろげにある。もうかなりの昔話だけど。

それ以降私は算数で苦労しませんでした、「ちゃんちゃん」ということならばここに書いてもしかたがながいべさ。

 私を悩ませたものに、小数がまざったかけ算わり算がある。なにがって、そりゃああなた、いままでやってきたかけ算というものは、かければ数が増える、そしてわり算といえば数が減った答えがでてくるのに、
小数のかけ算ときたら、数が減って答えを出さなければならないし、逆に小数で割ると、答えが大きくなって出てしまう。

これは今でも覚えているがかなり私を苦しめた。どのように自分なりの結論をだして、この問題から抜け出したかはよく覚えていないが、「まあそうやって答えを出せばよいのだとりあえず」という、
長いものにはまかれてしまうというものだったような気もしている。

 0.1*2=0.2

ということだが、これを次のように考えると納得する。

0.1 が2こあるから

0.1+0.1=0.2

だよね。でもさ、かけ算というのは順序を逆にしても、同じ答えが出るんだろ、だってそうやって習った門差。つまり

2*0.1=0.2

2が0.1こあるってどういうこと・・・。

これは2かける10分の1と同じなんだよ。とそのときには気が付かなかった。そんな頭はなかったとおもう。この結論はたぶんもう少し大人になってから出した考え方というか、結論というか、
そういうものだよというように思ったというか・・・。

(続くかも?)

 こんつは。

 先週のTBSの「久米宏のラジオなんですけど」に東京外国語大学の
荒川洋平先生が出ていました。先生は外国人に
日本語を教えているようです。そこで印象にのこったことは

 1. 毎日2時間ぐらい集中して2花月ぐらいやれば日本語0の人も
それなりに日常生活にはくろうしないレベルにはなれるといってました。

 それで、教え方は、絵や地図などを指しながら
「海です」、「海です」と繰り返す、そうすると「これが海」っていうんだなと解るようになるということでした。
そして、今度は山を指しながら「山です」、「山です。」と同じように繰り返し、
続けて「海じゃないです」、「山です」と繰り返すという方法を繰り返すのだそうです。
そうすると、否定は後ろに「じゃないです」というのを付けるんだとわかってくるということでした。

 確かに言われればまったくその通りだと思ったのだ。もちろん、他にもいろいろな手段で
教えるのだろうけれど、繰り返すと言うのは原始的なのかもしれないけれど、でも、繰り返すことによって、たぶん人間というのは、相手がなにを言おうとしているか解ってくるのではないだろうか。
子どもが言葉を覚えるのは、繰り返しの継続でしかないものね。

 2. 日本の英語教育についてもおもしろいことをいっていた。

 一言でいって、学校の時間割に問題があるのではということ。

 例えば、月曜日の3時間目にちょっと英語をやって、こんどは水曜日の4時間目に英語をやって・・・。
これではまばらで前のことは忘れてしまうし意味がないということである。

 ある程度できるようになったらそれでもよいのかもしれないけど、最初はやはり集中が大切だということのようだ。

 ということで、日本では小学校が終わってから中学を10月ぐらいから始めるようにして、間の
6ヶ月間はみっちり英語の集中授業をやれば、日本人の英語は延びるといっていた。

 基礎の基礎のようなことは、最初に集中したほうが良いということ。

 私はろくに言葉はしゃべれんが、語学には興味はなくはないので、この先生の本でもちょっと読んでみようかといいう気分にはなった。


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 こんにちは。

 テープ起こしの仕事が終わったので、昨日は昼間からラジオかけながらうたた寝モードだった。

 皆さんもないだろうか、テレビとか、ラジオなどをかけたまま寝てしまうと、夢の中でそのテレビの中に出演している自分がいることを。
 朝まで生テレビなどを見たままうたた寝していると「馬鹿野郎!!」と叫んでいたり、叫ばれていたり(笑)。
最近は朝まで生テレビ等は見てない。元々ノンポリだし、あの手の物はいまとなってはどうでもよいのだ。

というか、殆どテレビは見なくなってしまった。面白いと思えないのだ。騒々しいだけ。

 ということで、昨日は夢の中で「お話でてこい」に出て足りしたのだが。

 それで、まあなんだ、男子諸君、AVを見ながらうたた寝してご覧、もしかしてもしかだよ!

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時々テープ起こしの仕事が入ってくる。
まあそれをしこしこテキストに入力するのだが、時々大学とかのコンソーシアム系の講演会のものも頼まれる。
大学の先生は、最近はみんなかどうかはわからないけど、昔に比べれば話がうまくなったと思う。
まあときどき(そうでもないかな)わけがわからない横文字を並べるインテリぶった先生もいることはいるけれど。
それはそれで滑稽で楽しませてくれる。
本人はかっこつけているのかもしれないけれど、あれは逆効果だよ先生さんよ。

 それとやはり女性の先生の方が、全体的に話が上手だと思う。女性は男性より話が上手な気がしているが、あれはなにか頭の中が違っているのだろうか。

 頭の中身で思い出したのだが、テープ起こしをしていて気が付いたことがある。それは、喋り言葉をそのまま文字に書いて行って、それを読み返すと実に変なのだ。

 不思議なことで、実際にその講演などを聞いている時にはなにも違和感を感じないのだが、それをいざそのまま文字にするとおもしろいほどへんてこりんだ。

 それに、話をしていると、言い直しがあったりして、それをそのまま文字に変換するとじつに不思議なものになる。聞いているときには、スピーカーが言い直しをすることなどまったく気にもならないのだが。
それは私たちの脳が、瞬時にそのスピーカーの言い間違いや、言い直しを違和感亡く処理しているのだと思う。実によく考えてみたらすごいことを脳はしているのだと思う。


 それを考えると、ねーてぃぶでもないのに、外国語のテープ起こしをしているひともいる。もちろん言い直しとか、言い間違いとかはあるはずだ。
それを母国語でない人がやっているのを見るとそれもすごいと思う。まさに職人だよな。これにもあこがれる、かっこいいと思うんだよ。
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 先日保育園の芋掘り遠足に子どもが行ってきました。
 まあそれはいいんですが、その車中、我が子が「お爺さんの古時計」を歌ったといっていました。どうも一人でアカペラで歌ったらしいですが(笑)。

 確かに、この歌は私が息子にピアノを教えるときの題材にしていて、ピアノを
弾きながら歌えるようにということでやっていたのですが。だったらもうちょっと上手に歌えるようにしておくべきだったと思ったりはしたのですが、やはり少しうれしかった。

 私はピアノは小学校で少々やっただけ、もっとやっておけばよかったと今も後悔している。せめて即興で適当に弾けるぐらいにはなりたかったと思っている。大人になってからの音楽教育は、脳生理学的にいって、どんなに頑張ってもだめだと聞いたことがある。たしかにそうだと思う。だからこの年になっても後悔しているのだ。
音楽をやるのに絶対音感は必要ない(相対的にできれば良い)、。。でもやはり絶対音感には憧れを今でも強く抱く。和音を4つも取るのをみると単純だがかっこいいと思う。
ジャズの即興をみるとこれもかっこいいと思う。
楽譜無しで、即興で適当に流行歌がアレンジできればかっこいいと思う。
我が息子にはそれぐらいはできるようになってほしいと願っているのだが、どうだろうか。

音楽の早期教育というわけではないけれども、まあ楽しめるぐらいできるようにはなってくれればと思っている。
早期教育と言えば、最近英語を小学校で教えるとかいろいろとあるようだ。
たしかに、これも反論があるかもしれないけれども、RとLの音の違いは3歳ぐらいまでにそれに慣れてないと、判断が付かないと聞いたことがある。
だったら小学校では遅いということも言え無くはない。私等は中学校で英語を習い始めた人間だ。だからRとLの発音の違いは正直にいって解らない。全て文脈で判断するということになる。
これも区別ができたら良いのにという憧れを持っている。たぶんこれもいまからどんなに訓練しても無駄な気がする。

 同時通訳のベテランの人たちはどうなのだろうか。彼らはRとLの耳での聞き分け、VとBの聞き分けはできるのだろうか。小さいときに海外にいたという人は別にして、この同時通訳のベテランという人の中にはかなりの人数は私のように中学から英語を始めたという人は多いと思う。話を聞いてみたい。
後、私の感覚なのだが、私の耳には、英語より慣れればフランス語の方が聞き易いと思う。英語よりはっきりした音節のような気がしている。同じラテン系のイタリア語が聞き易いというのと同じ理由だと思う。まあここまでにしておこう。結構間違ったことを書いているかもしれないから。

 話は前後するが、お爺さんの古時計のことだ。
この歌詞、じっくり読むとなんとなく泣けてくる。実によくできた歌詞、それにメロディーだと改めて思う。小さい頃はそんなことまったく思わなかった。
少し年を取ったせいかもしれない。
私もたぶん人生の半分ぐらいは過ぎたと思う。なにも良いこともせず、なにも成果を上げず、なにやってきたんだろうか。
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 こんにちは。

 私はよく眠れなくなるとか暇な時間ができると時々「無限とはなんだろうか」と思ってしまうことがある。
「無限」というと哲学とか数学の世界になってしまうようなのだが。

 自分でもこの「無限」ということについてなにも結論めいたことは出てない。
よって、ぐだぐだな書き込みとなってしまう。

 無限の命、無限の空間、無限の時間等々いろいろなことで形容詞てきに使われているよね。

 無限にお金があったら、どういうことになるのか。
それは、いくら株に投資してもそしてどんなに損をしても、いくらでも果てしなく難平してもだいじょうぶということか。
でもそもそも無限に金があるので損をするという概念がないのかもしれない。

 無限に命が有ったら、死という概念すら出てこないような気がする。「ねえパパ、ねえねえ、死ぬってどういうこと」と子どもが質問するようなものかもね。
目隠しして、同じ所をぐるぐる回るように歩けば、その人は無限に歩くことができる。
そう言えば、確かしゃーろっくホームズの中に、「目隠しして長い時間馬車に乗せられていた」と被害者が
言っている話があったと思うけど、どんなタイトルのものだったか忘れた。
これは目隠しされていて同じ道を何度も何度も馬車で走っていただけという落ちだけど。

 無限を考えるときに、「果てがないこと、終わりがないこと」と言われるが、
終わりがないことというのがどうも創造ができない。終わりがないんだぜ。それって本当にどういうこと??
地球の中にある砂粒だって、有限の数しかない。地球上の中にある水野分子の数だって有限だ。つまり数えて行けば、「先生、地球の中野砂粒の数はいくつで、水野分子はいくつです」
「はい、よく数えられました」というようなものだよね。実際にこれらが数えられるかどうかはどうでもいいんだよ。

 だから果てがあるとか、きりがある、「これっきりだよ」ということはよくわかる。
そういえば、「もうこれっきりだよ」なんて何年もいわれてないよな(笑)。

 人間の記憶力も有限だ。だからいやなことは忘れることができる。ちょっとうそっぽい説明かもね。

 さて、内職に戻ろうか。まだこの落書きは続くのかこれで終わりなのかはわからない。
気が向けば続く。はっきり言えることは、無限にはこの話も続かないということ。

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 こんにちは。

 素朴な疑問が前からあります。
それはどこの家にもあるキッチンのガスレンジのことです。

 あのガスレンジというものは、両側に普通に煮炊きするためのコンロがあって、真ん中に魚を焼くための「魚焼き期」があります。

 すると、不思議なことにこの三つのコンロの火を着けるためのひねるハンドルの順番が変だと前から思っています。
真ん中が魚焼き期ならば、このハンドルの順番は普通に考えて、人間工学(ばかばかしいそんなに大げさなことか?)も考慮に入れて考えると、
左から順番に、コンロ1、魚や機器、コンロ2となるはずなのだ。
それがどこのメーカーも(まあ全部見たわけではないけどさ)左からコンロ1、コンロ2、魚や機器となっている。
これはどう考えても納得がいかない。私はよく間違って、右側のコンロ(コンロ2)を着けようと思って、何度魚や機器を着けてしまったか。
逆に、真ん中の魚焼き期を着けようと思って、何度右側のコンロ2を着けてしまったか。
ちょっとこりゃあぶないよね。まあ間違うのはおまえだけだといわれそうだけど。

 で最近は、コンロで魚は焼かない。べつに間違ってしまうからではない。
専用の魚焼き期の方が便利で簡単、お掃除も簡単という理由。

 昨日もサンマを頂きました。我が家ではサンマを食べるのが私だけなので、1パックに3尾入っているので、一人で3尾食べた。
大根下ろしも丼一杯。
いやあお殿様もびっくりな味でした。
それでは

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プロフィール

  • フタル酸166
  • 日本茶で洋菓子を頂くのが好きな人物です。パック鮨があればごきげんです!
  • http://www.watakatsu.com/

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