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高校時代の最近のブログ記事

昭和52年3月1日

沢山の思い出を胸に無事高校を卒業する事ができました。

卒業式の夜のお別れパーティでは、一人一人思い出を語り
友との別れに涙が止まりませんでした。crying

クラスメイトと別れを告げ、部落に戻る車の中でも涙・涙weep

卒業式の翌日には島を出て行く同級生の送別会に出席するも
涙・涙で一晩中泣いていたような気がします。crying

いつも明るく元気な私がいつまでも泣き止まないので、同級生達も

ヒトミー そんなに泣かないでー 又会えるからさー
あんたが泣くから、こっちまで泣いてしまうさー
weep

卒業式を終えてからは、毎日のように送別会が行われ
一人、又一人と同級生が島を出て行きました。airplane

そして、3月中旬。。。いよいよ私の旅立ちの日が近づいてきました。

残る同級生は少なかったのですが、送別会には沢山の先輩・後輩・親戚が
激励に駆けつけてきてくれました。

沖縄本島で会社の引率の方と合流して、那覇から飛行機で経つことになったので
ひとまず船で本島に行くことにしました。

船? ship

あっけない飛行機での別れはなぜだか寂しくて、あえて船にしたのです。
沖縄本島まで、オジイも一緒に行く事になり、3歳になる従兄弟を預かっていたので
本島に住む叔母の元へ届けながらの船旅でした。

船旅といっても夕方出航して翌朝には着くので、一晩船ですごすだけです。

いよいよ宮古島を出る日、船の甲板に出て見るとビックリ! eye

どれくらいの人数でしょう

先輩・後輩・同級生が大勢見送りに来ていました。

そして、同級生を通じて知り合った他校の方までも。

こんな私のためにわざわざ見送りに来てくれるなんて!
予想もしていなかった人達の見送りに感激しましたweep

港から投げられた別れのテープは、両手いっぱいになり持ちきれず
オジイにも持ってもらいましたがオジイの両手もいっぱいになる程
沢山の方に見送ってもらいました。

その光景にオジイもビックリして

いつの間にヒトミはこんなに沢山の友達が。。。
良かったね! 幸せだねー
happy01

オジイも感激で涙ぐんでいました。
船が岸壁を離れて、テープが切れても皆いつまでも手を振り
見送ってくれ、私は、感激で涙しながら島が小さくなって見えなくなるまで
甲板から離れる事ができませんでした。

小さな従兄弟が涙する私を心配そうに覗き込んでいました。


高校卒業後働く場所を探しいた私の目に止まったのは
兵庫県姫路市にある、東芝姫路工場

2交代勤務で寮も完備されていました。
又、しらゆり学園という学園があり、
寮生がさまざまなお稽古事が学べる学園に惹かれました。

又、姫路駅近くにタイピスト学校がありシフトに合わせて
通えることも魅力でした。

当時はワープロなんてありませんでした。
タイプの技術を取得する事で何か別の道が開けるのではと
考えていたので、働きながら学べるというのが最大のポイントでした。

企業の採用担当の方との面接で、自分の思いを正直に話し働く希望を
伝えたのです。

そして、採用決定の通知が来た時は、障害を持っていても働く場所があるのだと思うと
喜びと希望でいっぱいでした。

しかし、それはオジイとの別れの時でもあるのです。

採用通知が届いた夜、オジイに話をしました。

オジイは黙って私の報告を聞いた後、ポツリと

イイさ! 
ヒトミの人生だからヒトミが生きたいように決めたらいいさ
オジイは、ヒトミが決めた事に何も言わないよ
頑張りなさい。

寂しそうに答えてくれました。

私は

オジイ! 姫路に行ってもお盆と正月は必ず帰ってくるからね!

自分に言い聞かすようにオジイに告げました。

オジイは

無理しないでいいけど、楽しみに待ってるよ! 

寂しかったでしょうね。。。。

しかし、私が兵庫県姫路の東芝へ就職するという報告を聞いた母は激怒しました。pout

あなたは、そんなにお母さんの所に来るのが嫌なの?

お母さんに一言も相談しないで、何で勝手に決めちゃうの
annoy

それも東京から遠く離れた、姫路だなんて。。。

東京の近くにもっと働く所があったはずなのに、

なんで?
gawk

私と一緒に住みたいと考えていた母が怒るのはわかっていました。
でも、どうしても一緒に暮らす気持ちにはなれなかったのです。
その思いを母に話す事は、母を傷つけるようで言えませんでした。

私は母に

これから一人で働いて頑張ってみようと思っているのに、
お母さんの所に行ったら甘えてしまうでしょう。
それじゃー意味がない

それに姫路といっても新幹線で会いに行ける距離だし
沖縄と違ってそんなに遠くないじゃない

今までも離れて暮していたんだから、そんなに変わらないし
私はこの会社で働きながら勉強したいと決めたんだから、
お母さんが何を言っても無駄だよ! 
paper

オジイが許してくれたから、それでいいよ
scissors
近くに叔父さん達がいるから何も心配する事もないでしょう。
何かあったら叔父さんの所に行くから。。。


母も私の強い言葉に黙っていました。

兵庫県の隣、大阪には母の弟(長男と3男)が生活していたので
少しは安心したかもしれません。
私が姫路を選んだ理由のひとつでもあります。

そして、もうひとつ
叔父達家族に早く宮古島へ帰って欲しいという思いもありました。
長男である叔父達家族が私が卒業するまで宮古島へ帰るという約束が
あったからです。

叔父には叔父の事情があったと思いますが、なかなか腰をあげる気配が
ないまま3年が過ぎようとしていたのでした。

私が卒業してオジイの元を離れる事で、叔父達家族が宮古に戻って
オジイと生活してくれるという事を期待し、あえて叔父達の近くを選んだのです。

進路が決まると気持ちもスッキリhappy01

高校生活を惜しむかのように毎日友達と会い、
お互いの進路について語りあうようになりました。

多くの同級生が島を離れて行くことになり、
幼稚園から過ごしてきた友との別れる寂しさが日々つのってきました。


道路標識.jpgのサムネール画像



現在の事や中学時代に戻ったりで、チョッと忙しいブログですが
高校時代に戻りたいと思います。

学校を辞めたいと思った事が嘘のように毎日忙しく、
楽しく過ぎていき、なんとか3年に進級。。。

3年にあがると卒業後の進路を決めるべく、
先生との面談や相談がスタートしました。

いろいろと夢や希望はありましたが、
現実は簡単なものではありませんでした。

進学の夢を捨てた私は少しでもオジイを助けるために働きたいと考えていました。

しかし、小さな島で障害を持った私が働けるような場所はありません。

普通高校で何の資格も技術もあるわけでもなく、何をどう考えてよいのか分かりませんでした。

そんな時、東京に住む母から卒業したら東京に来るようにと話がありました。

家の手伝いをしながら、専門学校に通わせてあげると。。。

でも、その言葉に私は素直に応じることができませんでした。

なぜなら、物心ついた時からオジイ・オバアに育てられて来た私です。

高校を卒業して、一人前になってオジイと離れ母の元へ行く?

そんな白状な事ができるもんですか!

オジイの胸の内を考えると苦しくて涙が出てきます。

母は再婚して、すでに今の父との間に二人の子供がいます。
私は訳あってオジイとオバアの子供として育てられました。

戸籍上では母と姉妹です。

叔母達も私が東京へ行くことを快く思っていませんでした。

それは、長く離れて生活してきた私が新しい家庭生活に悩むであろうと。。。

その話を聞いてもオジイは黙っているだけでした。

きっと私と離れる事が寂しかったと思います。

悩みながらも進路相談室に通い、自分の居場所を探していました。

そして思った事は、働きながら何か技術を身につけよう

そうすれば次のステップに行けるだろうと

障害者でも受け入れてくれる企業があるか、
進路相談の先生にその事を話しました。

そして県外の企業で障害者でも受け入れてくれる所があると。。。

悩みました

オジイと離れる事になるからです。

でも、何もできないまま宮古島に残っているよりは一歩踏み出さなくてはいけません。

進路室にあった求人の資料を調べ、やっと希望の企業を見つけました。

しかし、希望を出したとしても企業の面接に受からなければ就職はできませんので
先生に手続きをお願いして、面接が終わり結果が出るまで誰にも話しませんでした。

もちろんオジイにも。。。









涙くんさよならnote さようなら涙くんnotes

また会う日までーnote

この歌を聴くと療護園時代の友達を思い出します。

ヨシエさん

中学2年の途中から療護園に入園してきました。
病気のため学校に通えなかったため、1学年留年したそうです。

活発で行動派のヨシエさんは、ズバズバと何でも言う正確で
時々私と衝突することもありました。
でも、どこか似ていたのでしょう。
すぐに仲直りして、さっきの喧嘩は何?って感じでした。

彼女はベッドクラスだったので教室組みの私と一緒に授業を
受けることはなかったのですが、見た感じ何処も悪いように見えなかったので
なぜ彼女がベッドクラスなのか不思議に思いました。

彼女も自分の病気の事を語らないので私もあえて聞くことはありませんでした。

しかし、楽しみにしていた修学旅行にドクターストップで行けなくなった時は
2人してとてもガッカリ、バスを見送る彼女の笑顔を思い出すと哀しくなることがあります。weep

それは。。。

ヨシエさんは、16歳という若さで帰らぬ人となってしまったからです。

訃報を聞いたのは、療護園を退院して1年後でした。

私達が卒業して療護園を出た後も彼女は治療のため療護園に残っていました。

その後、手術を受けたそうですが、手術の経過が悪く、
そのまま回復することなく亡くなってしまったと。。。

「涙くんさよなら」は、彼女が大好きだった歌でした。

彼女はこの歌を歌うことで自分自身を勇気付けていたのでしょう。weep

私達と同じように高校進学も夢見ていたでしょう。

だから16歳で去ってしまった、彼女の分まで頑張らなくてはいけません。

高校時代、辛く哀しい時は空に向かって「涙くんさよなら」を大声で歌い、
彼女を思い出し、自分自身を励ましていたのかもしれません。


作詞:浜口庫之助 作曲:浜口庫之助


涙くんさよなら さよなら涙くん

また逢う日まで


君は僕の友達だ



この世は悲しいことだらけ

君なしではとても

生きて行けそうもない

だけど僕は恋をした

すばらしい恋なんだ

だからしばらくは君と

逢わずに暮せるだろう


涙くんさよなら さよなら涙くん



また逢う日まで


涙くんさよなら さよなら涙くん



また逢う日まで

君は僕の友達だ

この世は悲しいことだらけ

君なしではとても

生きて行けそうもない

だけど僕のあの娘はね

とってもやさしい人なんだ

だからしばらくは君と

逢わずに暮せるだろう


涙くんさよなら さよなら涙くん



また逢う日まで

就学旅行出発前.jpg

修学旅行に出発する私達を寂しげに笑いながら見送るヨシエさん
デジカメもない時代のバカチョンカメラで撮った、たった一枚の写真です。

同級生や先輩達の交流が楽しくて、夜出歩く事が続いている私を心配してか

ある日、大阪で働いていた3番目の母の妹が突然帰ってきました。

叔母にあたるのですが、年も10歳しか変わらないことから

小さい頃から「ネーネー」と呼んでいました。

沖縄では、兄を「ニーニー」と呼び、姉を「ネーネー」と呼んでいます。

ネーネーとは、中学を卒業するまで一緒に暮していました。
小さい時から、姉妹のように喧嘩をしたり、いつも一緒に行動していました。

ネーネーは中学卒業後、集団就職で宮古島を離れ、
時折帰省するものの宮古島では働く場所も少ないため
東京→大阪と働いていましたが、突然の帰省です。

まだ結婚していなかったので動きが取れやすいネーネーを私の見張り役として
姉妹達に頼まれて、帰ることになったのでしょう。

案の定、ネーネーは口うるさく私の行動をチェックしていました。

そして、部落の経営する購買組合の本店で店員として働くことになったのです。

街までバスで40分以上もかかる小さな部落では、この購買店はとても貴重な店です。

生活雑貨から食料品を揃えているので、毎日の買い物は東と西にある2店舗で
部落の人達は買い物をしていました。

街で買うより少し割高ですが、各家庭には通い帳なるものがあり
毎日買い物をした商品名や金額を店のレジで記入してもらいます。

そして、年末に買い物金額のトータルから?%が、各家庭に換金されるのです。

今でも、通い帳のシステムは残っていて、狩俣購買組合は小さな部落の割には
結構黒字運営をしているということで、地元紙でも紹介されることがあります。

購買店は朝7時から夜9時までの営業で、年中無休の状態です。

盆・正月や行事の時は、パニックするくらい大忙しです。

ネーネーが購買店で働き始めてからは、私の仕事が更に増えました。

学校から帰ってくると夕食の支度をすませると、ネーネーと交代で購買店を手伝います。

そして、夕食をすませ戻って来たネーネーとレジを閉めて、その日の売り上げを専務のいる
支店へ届けて家に帰るという生活が始まったのです。

しかし、ネーネーも20代の若さですから仕事が終わってすぐに家に帰るわけがありません。

私を叱りつけながら、分自身も同級生と遊びに行くこともシバシバありました。

とてもか細くて、体力のないネーネーは貧血気味で時々体調を崩します。

その度に学校が休みの日は、朝7時から夜9時までネーネーの代わりに店を開けることもありました。

小さな部落の店ですが、やる事は沢山あります。

7時前には店の前で待っている人達もいます。

朝食の準備や仕事に行く前に買い物に来る人達で
朝からバタバタと追い立てられながら店を開けます。

そして在庫確認しながら、品物を並べてラベル貼り、

時には、アルコールや米の配達もします。

当時は米は計り売りだったので憶えるまでチョッと大変でした。

大きな注文が入ると、配達用の大きな自転車にビールケースを乗せて
配達した事もありました。

体の小さな私には足が届くわけもないですが、
なんとか、自転車に飛び乗るようにして運転していたと思います。

今ではどうやって運転していたのか思い出せませんが。。。。

多分乗れないでしょうね!

忙しい日々を過ごしながらも購買店の手伝いは結構楽しんでいました。

オジィやオバァが方言で話しかけてきて答えられるようになり

取引業者の方と仲良くなり、配達の途中に学校帰りの私を見かけると、
部落まで乗せてくれることもあり、お陰でバス代も節約することができました。

私にとって貴重な体験だったと思います。

購買店前で。。。

購買店.jpg






友人や先生の協力もあって、2年に無事進級した私は今までと違い
高校生活が楽しくなってきました。

2年のクラスがとても明るく、笑いの耐えない活気のあるクラスだったのです。

又、私を心配してくれた友人とも同じクラスになることが出来ました。

彼女を通じて、友達も増え行動範囲が広がってきたのです。

音楽同好会も2年目になると先輩達との距離も近くなり、
同好会としての活動も広がってきました。

丁度、フォークソングブームで「かぐや姫、イルカ、吉田拓郎、森山良子、チェリッシュ」etc。。。
多くのヒット曲が流れていた時代です。note

ギターの練習にも力が入りました。
少しでも上手になって先輩達に近づきたい、同じレベルで会話がしたいなどと思い
毎日、夕食の片づけを済ませるとギターを弾きながら大声で歌っていました。

田舎ですから、誰にも文句を言われることもありません。
それより、家を訪ねてくる近所の叔父さん・叔母さん達から

いつも道を通るたびに、ヒトミの元気な歌を聴いているよ?

いいね? 上手さ?
happy01

ますます調子にのってきました。

そして、夜になると同級生や先輩達に誘われて出かけることもしばしば。。。

今まで話をした事もなかった男子とも親しくなることができ、
毎日が楽しくて、学校を辞めなくて良かったと思いました。

でも、私のそうした心境を知らないオジイには、
私が夜出歩く事で心配をかけていたのです。

毎日の家事をこなしながら学校へ行く私に対して、
何も言わないでだまって見守ってくれているのですが、
私が夜、友達と出かける事で心配をかけていたのです。

当然の事ですね。

夜出歩くのはいけないことだと分かっているのですが、
ただ、友達・先輩とたわいのない話をして過ごすだけ。。。

それが唯一の楽しみだったので、誘いがあると出て行っていました。
外に出て誰かと話をしたい、誰かと一緒にいたい。。。

療護園を出てオジイと生活するようになってから、
遠く離れて過ごす母に対する不満が芽生えて来て、pout
その事をぶつける場所がないという苛立ちもあったからです。impact

オジイと生活して辛かったのは

70歳をすぎたオジイが若い人達と大工として働き、休みの日は畑仕事。
毎日働いても収入はわずかでした。

年金とオジイの収入だけでの生活は楽ではありません。
同居している叔父は、漁師を始めたばかりで殆ど収入がなく
生活費を請求してもわずかなお金しかもらえませんでした。

時々、自分の貯金から食費にまわすこともありましたが、
母から学費以外にオジイに協力がないことが最大の不満でした。

なんの贅沢もせず、黙々と働き、毎日の晩酌で泡盛を楽しむだけのオジイから
生活費をもらうことが辛くなってきたのと、叔父や叔母・母に対して、
言葉に出し切れない不満が大きく膨らんできたのです。

そんな苛立ちから時々、大声で叔父と喧嘩をすることもありました。

そんな中、オジイが私の夜遊びを心配して母に電話をしたのでしょう。

母から私に電話がありました。

当然、夜遊びの事で叱られましたが、私には聞く耳はありませんでした。

別に、何も悪いことしてないんだからほっといて!
家の事はチャンとしているから、心配する必要ないよ!
angry

そういって電話を切った後、オジイに

オジイ! 心配かけてゴメンネ!
でも、絶対に悪い遊びはしていないから信じて!
夜出かけるのは悪いのかもしれないけど、今はやめられない!
理由は言えないけど、もう少し時間が欲しい。。。。
think

その言葉にオジイはだまっていました。

主婦業もすっかり定着して高校生活も慣れてきました。

しかし、私には大きな悩みがありました。

受験当初は、大学進学を考えて普通科を選択したのですが
現実は、高校の授業料も生活費もままならない状態。。。

母やオジイにこれ以上負担をかけられません。
自然と進学への夢が消え去っていました。

そればかりか、療護園で少人数での授業から
40人という大人数の中で淡々と流れていく授業についていけなくなっていました。

大好きだった英語もガッカリするほど、つまらない授業となり
数学は、ただ黒板を眺めているだけの状態。。。

生物と古典を選考していましたが、理数科系は全くダメでした。

私は何のために勉強しているんだろう。。。。

進学を諦めてからは、ただ目的もなく授業を受けているのが
とても嫌になり、学校を辞める事を考え始めました。

そんな状態ですから、成績も恥ずかしいほどの点数で
試験のたびに追試を受ける状態。。。。

こんな状態では、進級も難しいでしょう
留年するくらいなら思い切って辞めてしまえ!

そう考えた私は、1年の3学期、担任の先生に
相談する事にしました。

宮古島の夏は早いです。

寒さのピークは2月。。。

5月には衣替えで、制服も変わります。

夏の制服は軽装でワイシャツに棒タイ
夏の制服スカートとワイシャツを揃えなくはいけません。

しかし、宮古島の夏の暑さでは、1着2着では追いつきません。
ましてや、年頃の女の子ですから汗臭いシャツを着るなんて
出来ません。。。

でも、小遣いもなく、わずかな奨学金と母からの仕送りで
生活費を切り詰めていた私は夏の制服を買う余裕等ありません。

そこで、家庭科の時間を利用して、ワイシャツを縫うことにしました。
洋裁の経験等ありませんので、しっかりと先生に教わって完成!

そして、友達に教えてもらいスカートも手作りで縫うことにしました。

なぜ?先生に教わらなかったというと。。。

学校の規則で、スカートのひだの数と膝丈が決まっていたので
チョッと規則違反ではありましたが、ひだの数を増やして膝丈を
長くして作りたかったからです。

今の学生はミニですが、私の時代はロング丈が流行っていました。

洋裁もコツを憶えると結構楽しく、オバアが使っていた足踏みミシンで
普段着のスカート等を縫って、お洒落を楽しむようになりました。

参考書なんて高いものは買うことができないので、学校の図書室で
勉強したり、友達の家で勉強したりと節約、節約でした

なんとか学校にもなれ、学校での唯一の楽しみは

「音楽同好会」

人数が少人数のため、部活動としてなりたっていないため
部費もなく、同好会としての活動でした。

当時は、フォークソングの最盛期!

かぐや姫、チェリッシュ、吉田拓郎、森山良子、イルカetc。。。

多くのアーティストが活躍していた時代でしたので
ギターを弾きながら歌を歌うことは憧れでした。

先輩達のギターを聞きながら、必死にコードを覚えて練習したものです。

中学時代にクラッシックギターを担任の先生に教えてもらっていたので
クラッシックギターは持っていたのですが、フォークギターがない。。。

どうしてもフォークギターが欲しくてたまりません。

でも、ギターを買う余裕等ありません。

夏休みを利用して、本島へ行き
同級生のお兄さんにお願いしてアルバイトをさせてもらいました。

そして、アルバイトのお金とコツコツとためた貯金で念願の
フォークギターを購入することができました。

嬉しくて、嬉しくて、毎日夜になるとギターの練習をするのが日課となり
台所仕事をしながら、洗濯をしながら、どこにいても
大きな声で歌を歌っていました。

テレビもNHKしか映らず、ラジオも電波が悪く時折台湾語の放送が
混ざって聞こえてくるほど、何の娯楽もない田舎です。
歌を歌っている時が一番楽しかったかもしれません。

そんな夏のお盆の時でした。

お盆には叔母達も帰省して久しぶりに賑やかになります。

お盆の3日間、小学校のグランドにやぐらが建てられ
盆踊り、のど自慢大会が開催されます。

私もギター片手に、のど自慢に参加してみました。

森山良子の「風が運ぶもの」♪

女の子がギターを持って歌を歌うことが珍しかったのか
見事優勝!

楽しい思い出の一つです。













私が住む宮古島の狩俣部落は小さな部落です。

道路標識.jpg

あまり歴史の事は知らないのですが、
狩俣部落の始まりというコラムが掲載されていましたので紹介します。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-146896-storytopic-64.html


偶然にもこのコラムを書いたのは、幼なじみの同級生です。

古くから、色々な祭事がありました。
ましてや、オジイの家は「新里」の本家
門中「むんちゅう」だけでも30件以上もあるとか。。。

古くから引き継がれている旧16日祭
他にもナツブーイやお盆等毎月のように何かしら祭事がありました。
その度に、仏壇にお供えする料理を作ります。
又、漁師をしている叔父の安全と大漁祈願等、全ての事を親戚の叔母さんに
教わりながら、本家の役割としてやらないといけませんでした。

沖縄だけの習慣で毎月の「模合い」
又、むんちゅう墓の建替えとかで、毎月親戚の人達が集まっていました。

不思議とこの「模合い」の日がいつもテスト期間中

当然試験勉強なんて出来ません。

酒のつまみの用意しなくてはいけません。
そして容赦なく

「ヒトミ? 水がないよ?」
「酒が足りないよ?」
「料理が足りないよ?」


酔っ払いの叔父さん達の私を呼ぶ声

イライラが募るばかりでした。

酔っ払いの叔父さん達がようやく帰り、片づけが終わる頃は11時を過ぎていて
眠さをこらえて、試験勉強をすることも度々ありました。

一番キツイな?と思ったのは、年頃の私に、オジイや叔父さんと話が合うわけがありません。
学校の話や友達の話が出来るわけでもありません。
だんだんと寂しさがつのってきました。

又、家の仕事があるので、遅くまでの部活動もできず

時間の自由がきく、音楽同好会のサークルに参加していました。

そして。。。一番の問題は学費です。
年老いたオジイに学費を出してもらうことなんてできません。

それでなくても、生活費はオジイの大工の収入で支えていたので
これ以上の負担をかける分けにはいきません。

私の貧乏節約生活のスタートです。

高校生活がスタートしました。dash
と同時に全ての家事もやらなくてはいけません。

朝は、大工仕事をしているオジイの朝食と弁当作りから始まります。
大工の仕事は朝が早いので夜のうちに準備をして、朝は手早く仕上げて
オジイを送り出さなければいけませんでした。

オジイは肉が大好きですが、歯が殆どないため食べやすいように
肉をたたいて、夜のうちに特性のタレに漬け込んでおきます。pig
そうすると歯茎でも噛めるほどやわらかくなるので、
オジイにはとても喜ばれました。happy01

夕方、学校から帰ると夕食の支度をしながら洗濯等など。。。

肉嫌いの叔父とオジイのための食事を作らなくてはいけませんが
レパートリーが少ないので料理の本を見ながら、あれこれと奮闘していました。

そんなある日叔父から

お前はオジイのためにばっかり食事を作っているじゃないかpout

それに、オジイには弁当作っても叔父さんには作ってくれないし

叔父さんはどうでもいいのか!
pout

と不満の言葉を言われ

慣れない台所仕事と学校生活で毎日奮闘しながらも頑張っているつもりだったので

叔父の言葉に思わずカッとなりimpact

私は叔父さんの嫁さんじゃないよ!annoy

そんなこと言うんだったら、何でも好き嫌い言わないで食べてよ!

肉を食べないから、何を作ってあげたら良いのか分からないさ?
pout

そんな事を言うんだったら自分で作ればいいさ!
annoy

叔父に言い返してしまいました。

叔父も私の剣幕にあきれてしまい、翌日から部落にある店で弁当を
買って漁に出て行ったようでした。

日曜日は、朝から家の掃除と洗濯
オジイの作業着は洗濯機で洗えないので、風呂場に広げてタワシで
洗わなくてはいけません。denim

明治生まれのオジイは骨太で体格もよかったので、作業着も大きくて
洗うだけでも大変なのに最後手で絞り終わった頃は、手がブルブルと
震えてグッタリします。catface

午前中の家事をすませるとお昼の準備です。
オジイは日曜日に、畑仕事に出ているのでお昼には家に戻ってきて
食事をとるからです。noodle
大工仕事をしながら、サトウキビも作っていました。
昼食をとった後、1時間程仮眠をとって又夕方まで畑仕事です。sleepy

オジイはとても働き者でいつも何かをしています。

大工道具も一つ一つを大事にしていて、毎日綺麗に磨き、
家のハサミや包丁等も刃こぼれひとつなくピカピカに磨いていました。shine

そんなオジイの楽しみは。。。

仕事を終えて、夕食を食べながら泡盛を飲むことですbottle
たまに、夕食まで待てなくてテレビを見ながら飲むこともありますが
オジイにとっての「命薬」方言でヌチグスイでした。

又、サツマイモも大好きで、365日食べても飽きないというほどでしたので
オジイの朝食はサツマイモと味噌汁heart04

オジイは私が作った食事に対して不平不満を言うこともなく
出された食事は残さず全部食べ、「美味しかったよ」と言った後に

「今日の味付けはオジイにはチョッと辛かった」
優しく味の評価をしてくれました。

そんなオジイに喜んでもらおうと思い、私も料理の本とニラメッコしながら
色々と作ってレパートリーを増やしていくようになりました。

学校へ行きながら家事をやるだけでも大変なのに

更に予想以上に、私にはやらなくてはいけない事が沢山ありました。sweat01

こんなんで、高校生活続けられるの?crying











プロフィール

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  • ウーマクオバー
  • 生後8ヶ月にポリオにかかり、右下肢マヒとなりました。中学3年間に手術とリハビリでなんとか人並みに歩けるようになり、宮古島の普通高校を卒業。兵庫県の東芝工場へ入社後、川崎へ転勤、そして結婚。身内や親戚もなく、誰も知らない横浜での生活の中で、3人の子供達は帝王切開で出産しました。横浜の団地生活も波乱ずくしでしたが、負けず嫌いの性格で何とか乗り越えて、15年前に沖縄に戻ってきました。現在沖縄の不動産会社でIT担当として日々頑張っています。沖釣りと家庭菜園が趣味。そして思い切りカラオケで歌うことでストレス解消しています。
  • http://umuza.ti-da.net/
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