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中学校時代の最近のブログ記事

試験を終えて療護園に戻り、試験問題を再度確認してみました。

英語・国語はクリアできても問題は数学ですが、答え合わせをしてみると
以外に出来ていました。

しかし。。。

宮古高校の倍率からするとどうなんでしょう?

果たして、合格ラインに入っているか。。。。



合格発表の日、外泊許可をもらって叔母の家にいました。

朝から、時計を見ながら気を紛らすようにテレビに食い入っていました。

そんな私に叔母は

宮古に電話して結果を聞いたら!

大丈夫だよ! きっと合格しているよ!


と催促をするものの、私はどうしても電話の前に立つことが出来ません。

時間だけが過ぎていきます。。。。

ダメかもしれないと、諦めかけたところに電話が鳴り響きました。

叔母が、「電話を取りなさい」と声をかけても恐くて出れません。

仕方なしに叔母が電話に出ました。

先生からです。。。。

そして、私に向かって叔母の声が明るく笑いながら

合格したってよー

おめでとう、良かったねー 

だから大丈夫だって言ったでしょう!


それからは、あちこちに合格を知らせる電話をかけまくりました。

オジイも心配で合格発表を見に行ったようでした。

やっと、家に帰れる。。。

そう思いながらも、
これから始まる高校生活

オバアのいない宮古での生活は不安でいっぱいでした。

そして、合格発表の後は慌しい日々が待ち受けていました。

卒業式、療護園の退園の準備等。。。

主治医の先生も私の検討をたたえながらも

手術したくなったら、いつでも戻って来いよー

なんて言うのです。

やだねー 絶対に戻りませんから

強気で言葉を返しながらも3年間過ごした療護園を離れることは
とても、寂しく感じました。

そして、卒業式を終えると、
お世話になった園長先生や主治医の先生、看護婦さん、調理の叔母ちゃん、
指導員の先生、訓練の先生や先輩後輩達に別れを告げ、思い出の療護園を
後にして宮古島へと帰ってきました。











受験勉強も順調に進んでいる中、中学最後の運動会がありました。

療護園では小中合同で運動会が行われます。

私と明美さんは、中学最後の運動会を自分達でも作っていきたいと考え
フォークダンスの振り付けを考えることにしました。

毎年、フォークダンスは車椅子と歩行できる人とで別れていました

それではせっかくのフォークダンスもつまらない
全員が参加できるフォークダンスでなくては思い出にならない

そこで考えたのは、車椅子と歩行困難な人達は円を描いて座ってもらい
歩行できる人達が移動して踊るという方法で、新しいフォークダンスを
考えました。

フォークダンス.jpg

フォークダンスだけでなく、いろいろと競技を考えて出来た運動会は
大成功でした。


中3運動会.jpg

そして。。。

オバアが亡くなって1年がたったお正月
3年ぶりに宮古に帰ったのですが、とても淋しくて
この時の記憶は全くありません。

ただ、オジイの妹メガンサオバーが私の手を握りしめ

アガイー ツンダラーサー 

宮古の方言で、「とても可哀想」と言いながら泣いて
いたことだけ憶えています。

その時、「そうなんだ? やっぱりオバアはいないんだ」と
実感しました。

オジイの淋しそうな姿を見ると、なにがなんでも高校合格して
宮古に帰ろうと強く願いました。

しかし、お正月を過ぎると急に冷え込み
冬の図書室は寒く、受験を目前にして風邪でダウンしてしまいまいた

何日も高熱が続き、勉強することもできなくて

受験に失敗したらどうしよう

こんな時に熱なんかだして、バカヤロウと不甲斐無い自分に涙しました。

そして、高校受験の日が近づき

宮古島へは、担任の正俊先生が引率してくれる事になり

不安いっぱいで、試験会場となる宮古高校へ。。。。



図書室を夜間解放してもらってからは、夜の騒がしい病棟を離れ
静かな環境の中で、受験勉強に専念する事ができました。

しかし、私にはもう一つ大きな難関がありました。

それは、受験科目の中で一番苦手な教科が

「数学」

この苦手な科目をクリアしない事には、合格への道は遠い。。。。

英語と国語は得意な科目だったので、心配はしていなかったのですが

「数学、理科、社会」の3つは、苦手な科目でした。

理科、社会は何とかクリアできそうでしたが、数学は生理的にも
「嫌い?苦手?」意識が私の頭を回転させてくれません。

でも、このまま分からないままでいるわけにはいきません。

まずは、自分がどの辺からつまづいたのかを振り返って見る事にしました。

小学校の算数に戻り、一緒に療養している小学生から教科書を借りて基本から
勉強して見る事にしました。

そして、数学の先生にお願いして、放課後個人指導をしてもらう事にしました。

数学の先生「大城先生(男性)」は、少し口が悪いので、
いつも反抗してばかりいたのですが何かにつけて話しやすい先生でした。

先生も私の個人教授のお願いに
「おっ! 仁美もやっとやる気になったな!」と言って
快く引き受けてくださって、ケンカしながらも時間がある時は放課後
病棟まで来て指導して下さいました。

小学校の算数からスタートです。
先生は、そんな私に。。。。

「お前は、こんなところも分からないのか!」

と小ばかにしながら毒舌を言ったりしますが
そこは、気の強い私の事黙ってません。

「分かっていたら先生にお願いしません!」

即座に言い返します(なんて可愛くないこと。。。)

すると先生も

「そうだな!」


と答えて、2人の珍問答の勉強会が始まったのです。

そして今までチンプンカンプンで理解できなかった部分も
理解できるようになってきたのです。

でも、だからといって数学は好きになれませんでしたね。 先生も。。。(笑)





少し、後戻りして中学2年の時の担任の先生の話ですが。。。

先生になりたての体育の先生、男の先生でした。

丁度、その頃テレビで中村正俊さんが先生役のドラマが人気だったと思いますが。。。

名前も同じ正俊先生、元気いっぱいの熱血先生で、友達のような先生でもありました。

毎日のホームルームは歌声で始まり、笑いの耐えないクラスでした。

先生が教えてくれた沖縄民謡で「二見情話」という歌があり、
朝のホームルームでよく唄っていました。note

ところがこの歌を唄った事で先生は校長先生にお叱りを受けたそうです。pout

なんでも、不倫の歌だとか。。。。coldsweats02

卒業した後に先生から、
校長先生に「こんな大人の歌を子供達に教えるんじゃない」
と叱られたよって聞かされ大笑いでした。

又、先生にはギターを教えてもらい私の音楽の世界が変わりました。
又、先生の結婚式にクラス全員招待してもらい、余興を披露したことも思い出の一つです。

そんな楽しい思い出を胸に、3年に進級する前にクラスの友達が一人ずつ退園して行き
最後に私と明美さんの2人きりのクラスになってしまいました。

でも、先生と3人だけのクラスになっても、言葉では言い表せないほど絆が深く繋がっていました。
そして、私も明美さんも3年になっても正俊先生が担任になるだろうと思い込んでいたのです。

ところが、3年に進級し新学期を迎えると担任の先生が国語の先生、
女性で三浦先生だと聞かされました。
私と明美さんはビックリしたと同時にとてもガッカリしました。

三浦先生が嫌いなわけではありませんでしたが、
私達の中には中学最後の学年を正俊先生以外に
考えられなかったのです。

諦めきれない私達。。。。

そこで、2人して校長室へ乗り込み校長先生へお願いすることにしました。

「校長先生! お願いです。私達の担任を正俊先生にしてください」
「私達には、正俊先生が必要なんです」
「お願いします」


校長先生もさぞビックリしたでしょうね。
会議で決まった事なので、それは出来ないと断られました。

でも、私達は何度も何度もお願いして校長室を後にしました。

新学期。。。。

教室へ向かう廊下で、3年の担任の先生となる三浦先生に出会い、「やっぱダメか?」
少しガッカリしながらも挨拶をすると三浦先生から思わぬ一言が。。。。

「私は貴方たちの担任じゃないわよ?」happy01
「よかったわね?」

え? ビックリです!

急ぎ教室で先生を待っていると。。。。

正俊先生が苦笑いしながら教室に入ってきました。

「お前たちには驚かされたよ!」

「前代未聞の出来事だよ! 普通はありえないよ!」


「三浦先生に謝りなさいね」

私達の思いが校長先生に届いたのでしょう!

早速、校長先生にお礼に行き、担任を変更させてしまった三浦先生に
謝りに行きました。

「校長先生、ありがとうございます」

「三浦先生、ごめんなさい」
「でも、先生の事が嫌いなわけではないので許して下さい」

職員室の先生達も私達の行動には驚きながらも笑顔で

「良かったね?」

正俊先生は、三浦先生の顔を見るのが
へんなーだったよって、いつまでも言っていました。coldsweats01



11月は何かと忙しくてブログの更新が遅れてしまっています。
先週末は、宮古島の同級生の息子さんの結婚式に参加してきました。

そう、同級生というのはオバァが亡くなった時に第一報を知らせてくれた
隣のよしこちゃんです。

同級生の子供さんの結婚式に参加できる事が出来て最高です。
久しぶりに同級生に会うことができ、楽しいひと時を過ごす事ができました。

幼稚園、小学校を共に過ごしたのですが、中学校時代の思い出が少ないのが
少し残念です。

中学1年の2学期から宮古を離れて療護園で生活していたからです。

そんな療護園生活もあっというまに2年が過ぎ、中学校3年となりました。
卒業後の進路を決めなくてはいけません。

その頃は、いろいろと夢がありました。

英語の先生の協力でイギリスとアメリカにペンフレンドがいました。
そのせいか、英語の成績は上の方で将来は本格的に英語を勉強して
通訳の仕事をしたいと思っていました。

しかし、現実はそう甘くはありません。

14歳の私に色々と決断する時がきました。

オバァが亡くなって宮古島にはオジィが一人で生活しています。
オジィの長男は大阪に住んでいて、当時6人家族。。。

すぐに家族を引き連れて宮古に戻る事ができないということで
叔父・叔母の希望もあって、私に宮古でオジィと暮して欲しいと
いう話がありました。

もちろん大好きなオジィと暮す事は嫌ではありません。。。
私が高校卒業するまでには、叔父達家族が宮古に帰るという約束で
私も宮古の高校を受験する事を決断しました。

しかし。。。
自分の目指す高校がなかったのです。
でも、高校だけは卒業しておきたいという気持ちだけで、
目標のないまま普通科を受験することに決めました。

英語の先生のアドバイスもあり高校で英語力をアップして、
もう一度進路を決めればいいんじゃないかと考えたからです。

ようやく進路が決まった時、突然、主治医の先生から
もう一度手術をするので、中学卒業しても退院はさせないと言われました。wobbly

でも、私の卒業後の進路は決まっていたのでたとえ主治医の先生に
言われても諦めるわけにはいきません。pout

私は、主治医の先生に談判する事にしました。

virgo 先生、今度手術する事で私の足は完全に治るんですか?

leo 完全に治るとは言えないが今よりはよくなると思う

virgo 今よりよくなるということは100%よくならないってことですか?

leo 100%良くなるとは言えない。。。

virgo 100%じゃなければ 私は手術は受けません。
   これ以上、足を切ってもよくならなければ今のままでいいです。


   私は、友達と同じように高校に行って同じように青春時代を過ごしたいです。

leo 1年遅れても高校に行けるし、同じように過ごせるだろう?

virgo ダメです。今の同級生と同じ学年ですごしたいので1年後ではダメなんです。

ガンとして聞かない私に主治医の先生は私に一つの条件を出しました。

leo じゃあ、それなら高校受験は認めよう。。。。
その代わり、受験に失敗したら手術を受けて後1年療護園に残ること。
それならいいだろう?

virgo 分かりました。絶対に高校に合格して見せます。
  後1年療護園に残るなんて考えられませんから。。。


そうして、私と主治医の先生との約束がスタートしました。punch




オバァが亡くなった後も不思議と宮古島にオバァが待っているような気がして
寂しいとか悲しいと思うことがありませんでした。

ベッドから起きれるようになって、ギブスが取れた右足はまっすぐに伸びていました。
しかし、長くギブスを巻いていたため膝が硬直して曲げることが出来ません。

そのため地獄のような(大げさかな?) リハビリがスタートしました。

毎日、夕方になると処置室に呼ばれて膝に蒸しタオルを乗せて
硬直した膝をじわじわと曲げるのです。
膝が真っ赤になるほどの熱さと無理やり膝を曲げる痛さに絶える日々が
続くのですが、思うように曲がりません。

ある日、主治医の先生が

「痛いと言って、訓練しないと余計に曲がらなくなるから、
先生が曲がるようにしようね」


そういって始めたのが。。。

私をうつぶせに寝かせ、先生が私の上に馬乗りになり
右足をぐいぐいと曲げていくのです。

いた?い
crying

大声で叫ぶと、「お前はチューバーだからこのぐらいは我慢できる」
と言いながら更にぐいぐいと曲げるのです。

普段でも鬼のように恐い先生が、更に鬼に見えました。
あまりの痛さに

痛いってば?
annoy

そう言ったかと思うと
反対の足で先生を跳ね飛ばしていました。foot

先生もビックリ!sign01

私もビックリ!sign01

無意識のうちの行動でしたcoldsweats01

あきれた先生もリハビリの手を止め

今日はこれ以上やらないから自分で訓練しなさいよ!

次の回診で曲がってなかったら又やるよ
pout

それだけは二度と味わいたくないので
それから毎日ベッドの上で膝を曲げる訓練を続け。。。。
約束の回診の時は膝が90度まで曲がるようになっていました。

もちろん、地獄のリハビリは無しですscissors

そして3月。。。

ドキドキの先輩が卒業と同時に退園することになりました。
結局、チャンと話をすることはありませんでしたね。

チョッと寂しい春でしたweep



ドキドキの運動会を終えてしばらくたったある日

オバァが宮古島から沖縄本島那覇の琉大付属病院へ入院する事になりました。

琉大付属病院は、今は移転して別の場所にありますが、
当時は那覇市寄宮にありました。
現在の県立那覇病院です。

療護園から歩いて行けるほど、すぐ近くにありました。

何の病気は聞かされていなかったのですが、
オバァからは「胃が少し悪いらしい」と聞いていました。

私は、主治医の先生の許可をもらい、授業が終わると毎日のように
オバァの所へ出かけて消灯時間まで付き添っていました。

毎日、オバァといろんな話をしながら看病していたのですが、
オバァが日に日に弱っていくのが心配でたまりませんでした。

そんな時、私の3度目の手術の日が決まりました。

「オバァ? 手術の日が決まったよ!」
「でも。。。手術したらオバァに会いに来れないし、
オバァの事が心配だから先生にお願いして
手術を後に伸ばしてもらおうね?」


私がそう言うと

「仁美ちゃん!ダメだよ! 
オバァは仁美ちゃんの足が一日も早く治って欲しいと思っているんだから
オバァのために手術を後回しにしたらダメだよ!
チャンと先生のゆう通りに手術を受けなさい」


「オバァは大丈夫だよ! 仁美ちゃんと、どっちが先に元気になるか頑張ろうね!」
「手術の日には行けないけど、オバァが仁美ちゃんの悪い病気は
全部天国に持って行ってあげるから頑張りなさいね」
「手術が成功するよう、オバァは神様に祈っているから。。。」

そう言って、手術をしぶる私を励ましてくれました。

昭和47年12月14日。。。3度目の手術の日。

右足の膝が曲がっていたので、膝を伸ばす手術です。
今までより、少し大きな手術になると聞かされました。

この日は、珍しく東京から母も来ていて、私の手術に付き添ってくれるというのだ。。。
今まで一度も来てくれなかったのに不思議に思いながらも、手術の不安もあったので
少し嬉しくもありました。

手術前日は外出できないので、2日前の12月12日
オバァに、手術頑張ってくるね?と別れたのがオバァとの最後の会話となりました。

オバァと.jpg

一回目の手術が終わって、ギブスも足首だけと小さくなり
かかとにヒールついて、杖をついて歩けるようになりました。

車椅子から杖をつくようになると又、ベッドクラスから教室クラスへ
移動になりました。

時間割には、リハビリ授業もあり園内のリハビリ室に行き
指導員の先生の下、おのおのがリハビリをします。

私は歩行訓練や足の筋力をつけるためのトレーニングでした。

そして、中学2年に進級した5月

沖縄に大きな変化が訪れました。new

5月15日

沖縄が日本に変換された日です。

そうすると、今まで使っていたお金が変るということで
叔母に持っていたお小遣いをドルから円に交換してもらいました。

日本円は、毎年東京へ行っていたので珍しくはなかったのですが

当時、1ドルが360円coldsweats02

換金されたお金を手にした時は、ビックリ!sad
こんなんで買い物できるのかしら。。。

今まで、10セントあればパンやお菓子が買えたのに10円じゃ何も変えないweep

1ドルで洋服も変えたのに360円じゃ服も変えないweep

わずかな現金を手に不安がよぎりました。

こんな金額じゃ、学用品を買うお金なんてないじゃないかと

お見舞いにもらったお金や時々祖母から送られてくるお小遣いが
私の園での生活費?だったからです。

子供の私が不安を感じたくらいですから、
大人達はもっと大きな不安を抱えていたでしょうね!

とにかく、何もかもが高くなったように感じました。

そんな夏に2度目の手術が決まりました。

2度目は、アキレス腱を伸ばす手術です。
麻痺した右足首はかかとが地面に着かず、つま先で立っている
ような状態でした。

そのため、右足のアキレス腱伸ばす事でかかとが地面に着くということでした。

手術は局部麻酔で行われましたが、1回目に比べると精神的にも楽でしたので
先生と会話しながら終える事が出来ました。

手術室からストレッチャーに乗せられ笑顔で出てくる私を見て、主治医の先生も

「チューバーヤッサー」 

と驚きの言葉をもらすほどでした。

沖縄の方言で「チューバー」とは「強い」という意味です。

園での生活にも慣れてきた私は、負けず嫌いの性格を
更に強さをバージョンアップさせたようです。

2度目の手術の後は痛み止めも拒否、paper
食事も普通食を要求して看護婦さん達を驚かせていました。

そのため、回復室も早々と出され大部屋の自分のベッドに戻る事が
出来ました。(回復室は個室で退屈な場所でした)

夏休み、宮古島に帰るという目的があったので、何としても帰れるよう
主治医の先生に外泊許可をもらうためのアピールでもありました。

でも、その頃。。。

祖母が体調を崩して東京で治療をしていた事を私は気づきませんでした。

教室前廊下で.jpg

中学1年の冬、暮れも押し迫った12月に
一回目の右足の手術が行われました。

手術の内容は、右足首の固定術

右足首がぐらぐらしていて、時々ぐにゃっとひっくり帰ったりするため
脛の部分から骨を削り取り、足首、くるぶしの下に骨を埋め込み固定する手術でした。

骨を固定するにあたり金属で固定するのですが、数ヵ月後に又その金属を取り除く手術が
必要となります。
しかし、私の場合、女の子の足の傷が大きくなっては可愛そうということで再度傷口を開くことが
ないよう銀の金具を入れたようです。

今でもレントゲンに小さく写っています。

手術は、全身麻酔で行われましたが麻酔が切れた後の痛みはきつかったです。

目が覚めると、回復室のベッドの上で足の付け根まで板で固定され包帯が巻かれていて
点滴の針がずれないように右腕も板に固定されていました。

あの頃の点滴の針はチョッと動いただけでも血管からもれて大変でした。

寝返りもできず、一日中ベッドに縛り付けられた状態で2・3日は天井とニラメッコ状態
朝昼晩と痛い注射を2本も打たれて、ただひたすら耐える毎日でした。

冬休みに入ると正月を自宅で迎えるため、園内の子供達が嬉しそうに迎えに来た家族と
帰っていくなか、私はベッドの上で羨ましそうに見送っていました。

大晦日、ガラーンと静まり返った園で数人の園児達とテレビを見ながらお正月を迎えました。

お正月の朝、調理のおばさん達も休みなので作り置きされた冷たい食事を食べながら
暮れに手術をした先生を恨んだものです。

傷口の抜糸が済むと骨が固定されるまで、ギブスを巻かれて車椅子の生活が始まりました。

何が大変かというとお風呂入る時苦労しました。

ギブスを巻かれた足にビニールを巻きつけぬれないようにするのですが、
十分にお湯がかけられないので寒さに震えながらの入浴でした。

又、定期的に足の様子をみるためギブスをはずすのですが、これがとても怖い

小さな電動ノコギリで切っていくのを見ながら足が切れるのではないかと震え上がったものです。

ギブスを巻く時に綿を巻くので綿に絡まると電動ノコが止まるのですが、足がかゆい時にものさしや棒を突っ込んで足をかいていた所の綿が薄くなっていたのです。

実際、かすり傷も。。。。

手術より怖い、ギブスはずしでした。


校庭で美術の時間に、ベッドクラスの 同級生と写真撮影
美術の時間中庭で.jpg



沖縄整肢療護園での生活がスタートしました。

授業は、ベッドクラスと教室クラスに分かれていて
私は、歩くことができるのでグラウンドを挟んだ教室で
授業を受けることになりました。

今まで、40人の大勢のクラスで授業を受けていたので
少人数のクラスでの授業はとても緊張しました。

中一二学期.jpg

でも、すぐに皆と仲良くなることができ新しい生活にも
すぐになじむ事が出来ました。

一番辛かったのは、夕食が夕方5時半。。。
消灯時間が9時でしたが、育ち盛りですお腹が空いて大変でした。

というのも当時は財団法人の運営のため財政が厳しく食事は
とても質素でした。

毎日、モヤシ料理

朝は味噌汁にモヤシ、昼もおかずにモヤシ、夜もモヤシ炒め

月に2度程カレーライスの日がありましたが、お肉の姿は見たことが
なかったような気がします。


食堂.jpg

食べ盛りの子供達が大勢でしたが、お代わりも殆どありませんでした。

空腹をこらえて、面会に来た叔母に食べ物を差し入れてもらい
それも小さな子供達が寝静まってから、暗闇でこっそり食べていました。

たまに、園をこっそり抜け出して近くの店に夜食を買いに行ったりも。。。。

病室で誰かが誕生日だとすると、看護婦さんに許可をもらい消灯後
他の子供達にばれないように小さな明かりの中で、誕生日会&ラーメンパーティを
開いたものです。

インスタントのラーメンが人気で今はなくなってしまいましたが
オキコラーメン。。。

夕方食堂からどんぶりを借りて、お湯は看護婦さんにお願いして
給湯室のお湯を分けてもらい、ズルズルと食べるラーメンの味は格別でした。

そんな生活にもなれた頃、最初の手術の日が決まりました。

それも12月中旬!

お正月は宮古島で過ごそうと楽しみにしていたので
ガッカリでした。

主治医の大城先生は身体も大きくて怖い先生なので
正月帰りたいなんて言ったら、大きな目で睨まれてしまいます。

足が少しでも早く治るためには我慢するしかありません。

手術の日が近づくのが毎日ドキドキでした。







プロフィール

  • プロフィール画像
  • ウーマクオバー
  • 生後8ヶ月にポリオにかかり、右下肢マヒとなりました。中学3年間に手術とリハビリでなんとか人並みに歩けるようになり、宮古島の普通高校を卒業。兵庫県の東芝工場へ入社後、川崎へ転勤、そして結婚。身内や親戚もなく、誰も知らない横浜での生活の中で、3人の子供達は帝王切開で出産しました。横浜の団地生活も波乱ずくしでしたが、負けず嫌いの性格で何とか乗り越えて、15年前に沖縄に戻ってきました。現在沖縄の不動産会社でIT担当として日々頑張っています。沖釣りと家庭菜園が趣味。そして思い切りカラオケで歌うことでストレス解消しています。
  • http://umuza.ti-da.net/
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