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小学校時代の最近のブログ記事

祖父母と暮らした小学校時代は、まだアメリカ占領下の時代ですから
けっして裕福ではありませんでした。

電化製品なんてものは、殆どありませんでした。
洗濯は手洗い、ご飯を炊くのも石油コンロです。

お風呂なんてありません。

夏場は水風呂、冬はやかんにお湯を沸かして、たらいの中に入れ
わずかなお湯で温まっていました。

水道もタンクにためた雨水をろ過した水を使っていました。

電気もはだか電球で、度々停電するのでランプでの生活が多かったような
気がします。

一番嫌だったのは、トイレ。。。
豚小屋の側で、ボットン便所です。

臭いし、怖いし。。。

ようやく、コンクリートのトイレを別に作ったのですが、
これも母屋から離れた庭にあるので、雨の日は大変でした。

夜は真っ暗闇で、懐中電灯を持っていかないと見えないので
時々、裏庭でこっそりすませたものです(笑)

野菜は庭の小さな畑で、オバァが作っていたので野菜には
困りませんでした。

おやつといえば、黒糖かサツマイモ
配給でもらった脱脂粉乳に砂糖を混ぜた粉を食べていました。

料理上手なオバァが時々、サツマイモのかりんとうを作ってくれたり
寒天やみたらし団子などを作ってくれました。

そして、本土へ集団就職で頑張っている、叔父や叔母達のために
かりんとうやアオサ、ティナザ(貝)、油味噌を袋いっぱい作って、送っていました。

その度にオバァと海へアオサや貝を採りに出かけたものです。
採った貝は、大きな鍋に浜で海水で煮て殻から出します。

冬場は寒くて、とても辛い作業でした。bearing

すると、オバァは

あなたのお母さんにも送るんだから、頑張りなさいrock
お母さんは、あなたが頑張って送ってくれたものだから喜ぶさ~wink

オバァは私にいろんな体験をさせてくれました。

厳しくもあり、優しくもあり オバァから習ったものは沢山あります。

オバァは、とても忙しい人で、大阪、東京、那覇と結婚式や娘達の
出産の世話に出かけたりと飛び回っていました。

そのせいか、同じ部落のオバァ達に比べるとハイカラなオバァでした。

部落で洋服を着たのもオバァが最初だそうです。

オバァが留守の間は、オジィと二人で留守番です。

大工をしているオジィは朝早く出かけ、夕方にしか戻りませんので
私が夕食を作ることもありました。

どんなに失敗しても黙って全部食べてくれました。
食べ終わった後に、「今日のオカズは辛かったね」と一言だけ言うのです。

小学校3~4年生から台所に立たされていたので、チャンプルー料理は
見よう見まねで作っていました。

一度、友達と野菜炒めを作っていたところ、油が多かったのかフライパンに
火がついてビックリしたことがあります。

焦った私が、友達に水~ と叫んだ所
友達はビックリしてコップに水を持って来るというハプニングがありました。

何もなかったけど、あの頃がとても楽しかったように思います。








宮古島?.jpg
今日は慰霊の日です。

沖縄戦から64年経過今日は
戦争で亡くなられた方達の冥福を祈ります。

私が中学校2年15歳の5月15日に沖縄は日本に返還されました。

物心ついた頃から、ドル紙幣でしたので日本円になった時は
かなり戸惑いました。

小学校時代は宮古島は色々な面で遅れていたのかもしれませんが、
沖縄本島から比べるとかなり貧しくて、電化製品がある家庭は
極わずかの家しかありませんでした。

冷蔵庫もなく部落の共同売店に大好物のバターを入れてもらった記憶があります。

時々学校に米兵が尋ねてきて、脱脂粉乳の配給や
チョコレート・ガム等をもらったりしていました。paper

いわゆる、ギブミーチョコですかcoldsweats01

古いですね?coldsweats01

又、学校の運動場に椅子を並べて、子供達を座らせて歯の治療をしたり、
予防接種やしらみ駆除等をしてもらっていました。weep

年に一度、全校生徒で日本の旗を持って、祖国復帰を願う行進が行われました。

沖縄を返せ?♪note 

と歌を唄いながら部落内を行進するのです。

私は行進には足がついていけないので、学校の周辺だけ行進についていきました。foot

昨年、50歳の同窓会を行った時に同級生で唄ってみました。notes

ほぼ、40年前の出来事ですが覚えているもんですね。

平和な沖縄になったでしょうか。。。




1ヶ月もの間ギブスで固定された右足の筋肉がすっかりなくなってしまった私は、
歩くこともままならない状態になってしまいました。

まずは、通学が困りました。

学校への道のりは、わずか300m程の距離ですが、
カバンを持って歩くことが出来ません。weep

2?3日は、祖母が背負って送り迎えしていたのですが、4年生の私がおんぶされて
学校の門をくぐると、低学年の生徒が不思議そうに見て笑います。think

私も恥ずかしいので祖母の送り迎えを断って自分の力で通う事にしました。

壁や塀につかまって、ゆっくりと歩く? 
片足だけの力で前に一歩一歩、時には片足ケンケンで。。。foot

カバンが重くなると、前の方に放り投げて進むという状況でしたが、
時々友達がカバンを家まで届けてくれました。

そんな中、隣部落から通って来ている同級生が見かねて、
自転車で送ってくれるようになりました。
毎日、数人の友達が交代で送ってくれて、祖母もとても喜んでいました。happy02

友達が帰る時は、庭にあるバナナやバンシロウ(グワバ)の
実をお土産に持たせていました。

そこで、私は考えました。。。。

自分で運転して自転車で通えばいいんだ?とnote

でも、自転車は自分で運転した事はありません。
もちろん我が家にも自転車はありません。

オバー 自転車買って? そしたら自転車で学校に行くよ!

ダメだよ! これ以上怪我して、これ以上足が動かなくなったらどうする!angry

当然祖母に許可がもらえませんでした。

諦め切れません。

そこで、私が取った行動は。。。。

内緒で友達の自転車を借りて、自転車に乗る練習をすることにしました。

自転車に乗れるようになれば、祖母も自転車を買ってくれるのではないかと
思ったからです。

友達に支えてもらい、何度も転び、壁に激突しながらも練習した結果
ようやく乗れるようになったのです。

そして。。。。

オバー 自転車に乗れるようになったから、自転車買って?bleah

全く? あんたは?
gawk

祖母もそんなウーマクな私にあきれ返っていました。

話を聞きつけた叔父(母の弟)が、補助輪付の自転車をプレゼントしてくれました。

そして、学校の許可をもらって自転車通学を始めることが出来ました。

自転車に乗ると、世界が広がり部落の端から端へと移動したり、畑仕事の手伝いや
家で飼っているヤギや牛の餌、草刈のお手伝いも出来るようになり毎日野生児のように
飛び回っていました。horse

自転車をこいで畑道や坂道をこいでいるうちにリハビリになっていたのでしょう。

右足も少しずつ力をつけて、支えなしでも歩けるようになってきました。


小学校時代は、かなりオテンバ(ウーマクー)な私は、
かけっこ以外の遊びは全て参加しました。scissors

友達が私が参加しやすいようにルールを変えてくれたお陰かもしれませんが
ゴム飛びや縄跳び、鬼ごっこ、石蹴り等毎日sun日が暮れるまで楽しく遊んでいました。

学校の休み時間は、天気の良い日は外でボール遊びや鬼ごっこが定番でした。

そんな小学校4年のお昼休み時間。。。

いつものように午後の授業が始まる前に、外で同級生とジャンケンゲームをしていました。

ジャンケンで勝った人が大股で飛びながらゴールへ向かって行く遊びです。run

そして私が飛んだ瞬間、悪い方の右足がガクンと崩れ地面に膝をついてしまいました

その瞬間、ピキッという音と激しい痛みがはしりました。annoy

遊んでいて転ぶことは日常茶飯事でしたが、その時の痛みは別でした。

膝をついた場所には大きな石が埋まっていたのです。bomb

立ち上がれなくなって泣き出した私を同級生達は医務室へ負ぶって行き
手当てをしてもらいましたが、痛みが激しさを伴ってきました。crying

先生も私の痛みが普通ではないと思い、急ぎ祖父へ連絡迎えに来てもらう事に。。。

祖父が雨の中迎えに来た頃は、私の右膝は腫上がり
夕方には熱と共に激しい嘔吐を繰り返していました。

宮古島の小さな部落です。

タクシーはtelephone電話で町の方から来てもらわないといけません。car

その間も激しい痛みと嘔吐が続き、私はただ泣きじゃくっていました。weep

やっと、夜8時過ぎ町の救急病院へ到着、hospitalレントゲンを撮ってもらったところ
右足の膝上にヒビが入っている事が分かりました。

硬い石の上に膝をついてしまった衝撃でヒビが入ってしまったのです。

専門の先生ではなかったのですが、とりあえず足を固定するために
ギブスを巻く処置が行われました。

しかし、このギブスで私の麻痺した足が最悪な状態になるなんて
祖父母も私も思っていませんでした。

右足の付け根から全体にギブスを巻かれた私は、歩くこともできなくて
一ヶ月間自宅療養をする事になったのです。

当時は、wheelchair車椅子も杖もなく、学校のトイレは和式、toilet教室から遠く離れた
運動場の先にあったので、通学が無理だったのです。

もちろん自宅も和式トイレで、いわゆるボットン便所。。。

1ヶ月間の自宅療養は、退屈な毎日でした。despair
勉強も遅れをとってしまい、時々先生や友人がノートを届けてくれましたが
一人自宅での勉強は、チンプンカンプンですgawk

一ヶ月後、ギブスが取れた瞬間shock
私も祖母もギブスの中から現れた右足を見て唖然としました。

ギブスの中から現れたのは、黒く枯れ枝のようにやせ細った右足だったからです。foot

麻痺している足にギブスを巻きつけたまま、一ヶ月も放置していたせいで、
筋肉がなくなってしまっていました。

右足の力は全くなくなってしまっていて、立ち上がっても左足で支えるのがやっと
歩く事が出来ませんでした。

そんな私を祖母はweep涙しながら背負い病院を後にしました。

後で聞いた話ですが、麻痺した足にヒビが入ったからといって1ヶ月もギブスを巻くのは
間違った治療だったということです。

当然にして、麻痺した足は筋肉が衰えて動かなくなってしまう。。。

離島の小さな病院、医療が遅れていたというだけでしょうか?

担当医の知識のなさ?

ウーマクーが過ぎた事を反省しても、病院の選択を間違えた事を悔やんでも
もう右足は元には戻りません。

それまで両足の太さは殆ど同じで軽いビッコをひきながらも、
わずかに走る事が出来ていたのが、大根とゴボウのように太さも変ってしまい
歩く事もままならなくなってしまったのです。down

辛い日々がスタートしました。






宮古島の自然に囲まれて祖父母に育てられた私は
目の中に入れても痛くないと言われるほど可愛がられていました。

初孫でもあったので、祖父は私の事をとても大事にしてくれました。

親戚の中に3人の男の子がいましたが、丁度年齢も同じ年齢で毎日といってもいいほど
一緒に遊んだり、お互いの家を行き来して寝泊りしたりで兄弟のように過ごしていました。

その3人の男子、てっちゃん、あきらくん、よしのぶくん
祖父からある事をいいつけられていました。

ヒ○ミを守りなさいよ!

虐められないようにかばいなさいよ!

泣かしたらダメだよ!


この掟があったようです。

私が泣いて帰ってこようものなら、祖父は虐めた子を追っかけて行き、拳骨一発rock

そして3人のナイト達に。。。

ヒ○ミを泣かすなっていったでしょう!
ちゃんと守りなさい!
angry

そういって拳骨とともに叱られていたそうです。

だから、いつも3人のナイトが一緒でした。bleah

大人になった今、彼らに会うとこの話で盛り上がります

はぁ? 大変だったさ?
お前が泣くとオジイがすぐ飛んできて 泣かすな?angry
と言って叱られて怖かったさ?
sad
ほんとにお姫様みたいだったよdespair

たまに姫? 元気か?なんてねbleah

祖父が怖かったので部落ではかなり有名で、
部落の男の子達は私を泣かすことはような事は
しませんでしたね?(笑)
小学校4年.jpg

狩俣小学校グランド.jpg

宮古島の小さな部落の小学校は、5年生になると隣部落の子供達も一緒に勉強します

バスは一日に数本しかないので、隣部落の子供達は歩いて登校してきますが
歩いて40分はあるかと思います。

当時は道路も舗装されてなく、畑のあぜ道のような農道を歩いてくるので大変だったと思います。

そのせいか、5年生に上がるまで隣部落の子供達とは殆ど交流がありませんでした。

私が、小学校3年生くらいだったでしょうか。。。。

放課後帰宅中に、遠くから私をからかう声が聞こえてきました。

ギッタ! ギッタ! ナイギギッタ!

宮古の方言でビッコという意味です。

数人の男子先輩が私の歩く姿を真似しながら、笑いながらからかっているのです。

そして、石を投げつけてきました。

一緒にいた友達が怒って、石を投げ返して追い払ってくれましたが

悔しくてしょうがありませんでした。

なんで、虐められなくてはいけないの?weep

私の歩く姿は、そんなに可笑しいことなの?weep

そんな悔しい思いを作文に書き綴りました。

私は作文を書くのが大好きで、たびたび作文コンクールで賞をもらっていました。

内容は
「私だって好きでビッコになったわけじゃない、病気でそういうふうになってしまったんだ
もし、自分がそんな身体になってしまったらどうするの? 自分の身近な人が病気になったら笑えるの? 身体の不自由な人をからかうことは恥ずかしい行為です」

そんな感じで書いたと思います。

そして、この作文が賞をもらって全校生徒の前で読み上げる事になりました。

その後、私をからかって虐めた先輩達が私の元へ謝りに来てくれたことを覚えています。

それからは、逆に私の事を守ってくれるようになりました。happy01

今は、仕返しが怖くてそんな逆襲はできないのかもしれませんが
昔の子供達は素直だったのかもしれませんね。






小学校1年から6年までを宮古島の小さな部落にある狩俣小学校で過ごしました。

負けず嫌いの性格で、目立ちたがりやな私は学級委員や校外活動も積極的にやりました。

体育の授業も走ること意外は全部参加し、器械体操、鉄棒・マットは得意でした。

他のスポーツでもクラスの皆が協力してくれたので、サッカーやバスケット等はゴール付近で


待機していてパスをもらいシュートする等、縄跳びやゴム飛び等の遊びも積極的に参加しました。

昔は、遊び道具は自分達で作って、考えて遊んでいたので毎日が楽しかったですねsmile

友達も私には特例をあげて、遊びやすいルールを考えてくれたりで、
毎日5?6人の友達と一緒にいました。

宮古島は四方海に囲まれている平坦な島です。

自宅から海まで歩いても15分程で行くことができるので、子供達だけで海に行ってはいけないと
大人に注意されたところで聞くわけがありません。

祖父母の目をこっそり盗んでは、友達と海へ出かけました。
海へ行く途中の畑で、スイカやキュウリ、トマトを調達して?
悪い事です。。。反省coldsweats01

停泊中の船から飛び込んだりして、思う存分海水浴を楽しんでいました。

内緒で海に出かけた後のお仕置きは、バッチリとありましたcoldsweats02

ヤーチューですspa。。。(もぐさでお灸をすえられるんですweep

でも、ウーマクーな私がヤーチューくらいで大人しく引き下がるわけがありませんsmile

ばあちゃんも大変だったでしょうね?。。。

そんな小学校時代ですが。。。。

続きはまた

朝日を浴びるアダン2.jpg

ITおばあちゃん まだまだ頑張れる!『オババ日記』

プロフィール

  • プロフィール画像
  • ウーマクオバー
  • 生後8ヶ月にポリオにかかり、右下肢マヒとなりました。中学3年間に手術とリハビリでなんとか人並みに歩けるようになり、宮古島の普通高校を卒業。兵庫県の東芝工場へ入社後、川崎へ転勤、そして結婚。身内や親戚もなく、誰も知らない横浜での生活の中で、3人の子供達は帝王切開で出産しました。横浜の団地生活も波乱ずくしでしたが、負けず嫌いの性格で何とか乗り越えて、15年前に沖縄に戻ってきました。現在沖縄の不動産会社でIT担当として日々頑張っています。沖釣りと家庭菜園が趣味。そして思い切りカラオケで歌うことでストレス解消しています。
  • http://umuza.ti-da.net/
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