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2010年1月アーカイブ

合格発表から、慌しく宮古島へ帰った私には
多くの事が待ち受けていました。

オバアが亡くなってしばらくしてから、
石垣島から叔父が戻ってきていて、オジイと2人で生活していました。

叔父は私が小学校の時、事故で右手首をなくしてしまったのですが
負けず嫌いの強い性格で、船舶の免許を取り宮古島で猟師として
スタートさせていました。

又叔父は若い時、青年開発隊?にもいたと言う事で、とても知識が深く
右手のハンディは物ともせずに、漁の仕掛け作りはもちろん、
料理等なんでもこなしていました。

でも。。。叔父は頑固で、若い時のトラウマで肉類を一切口にしません。
友達に騙されて犬の肉を食べさせられたそうですdog bearing

オジイは大の肉好きpig

度々食事の事でぶつかっていたようです。annoy

当然、叔父は私が帰って来た事を喜び、
食事の支度を全面的にやらなくてはいけません。

食事だけではなく、家事全般が全て私の仕事となります。sweat01

今までオバア任せに生活してきて、3年も療護園生活です
まともな料理など作れるわけがありません。

でも、そんな事を言っている暇もなく叔父に教えてもらいながら
肉入りのオジイ用のオカズと肉なしの叔父用のオカズと
二種類の食事を作らなくてはいけませんでした。

魚は、叔父が漁から獲ってきた魚やイカ・タコ等があるので
不自由はありませんでしたが、魚を捌いた事もない私には
生臭くて、その作業がとても嫌でした。

家事全部をやらなくてはいけないというプレッシャーもありますが、
それよりも入学の手続きや制服の準備等、分からないことばかりで
何をどうして良いのか戸惑う私に幸いにも、親戚のお姉さんが同じ高校に通っていて、
いろいろと教えてもらう事ができ、制服のお下がりをももらう事が出来ました。

でも、一着だけは、新品で仕立てる事にしました。new

東京の母や応援してくれた叔母へ、
新品の制服姿で記念写真を送りたかったからです

入学記念写真.jpg

高校までの通学は、部落から市内までバス通学です。bus
宮古島は、バスの市内線がありません。

平良から狩俣まで、路線バスの「八千代バス」を利用します。

平良市内から狩俣部落まで約40分

そして、路線バスの終点から徒歩で高校まで、
私の足では30分以上かかります。

まだ、リハビリも完全でなかった私は右足は鉛の入った膝までの金具付き義足を
履く事で歩行していたので、長く歩けなかったのです。
ましてや、教科書の入った重いカバンを持って歩くのは、とても無理でした。shoe

でも、なんとかしなくてはいけません。

オジイもそんな私を心配して、毎日市内まで仕事に向かう親戚の叔父さんに
学校への送り迎えをお願いしていました。

オバアの本家の叔父さんで、子供の頃から知っている叔父さんでした。

皆、私が生れて来た時から私を知っている人達ばかりなので
安心して頼る事ができました。

とりあえず、とまどいながらも周りの人達の助けを受けて
新しい生活を少しずつスタートさせる事ができました。





試験を終えて療護園に戻り、試験問題を再度確認してみました。

英語・国語はクリアできても問題は数学ですが、答え合わせをしてみると
以外に出来ていました。

しかし。。。

宮古高校の倍率からするとどうなんでしょう?

果たして、合格ラインに入っているか。。。。



合格発表の日、外泊許可をもらって叔母の家にいました。

朝から、時計を見ながら気を紛らすようにテレビに食い入っていました。

そんな私に叔母は

宮古に電話して結果を聞いたら!

大丈夫だよ! きっと合格しているよ!


と催促をするものの、私はどうしても電話の前に立つことが出来ません。

時間だけが過ぎていきます。。。。

ダメかもしれないと、諦めかけたところに電話が鳴り響きました。

叔母が、「電話を取りなさい」と声をかけても恐くて出れません。

仕方なしに叔母が電話に出ました。

先生からです。。。。

そして、私に向かって叔母の声が明るく笑いながら

合格したってよー

おめでとう、良かったねー 

だから大丈夫だって言ったでしょう!


それからは、あちこちに合格を知らせる電話をかけまくりました。

オジイも心配で合格発表を見に行ったようでした。

やっと、家に帰れる。。。

そう思いながらも、
これから始まる高校生活

オバアのいない宮古での生活は不安でいっぱいでした。

そして、合格発表の後は慌しい日々が待ち受けていました。

卒業式、療護園の退園の準備等。。。

主治医の先生も私の検討をたたえながらも

手術したくなったら、いつでも戻って来いよー

なんて言うのです。

やだねー 絶対に戻りませんから

強気で言葉を返しながらも3年間過ごした療護園を離れることは
とても、寂しく感じました。

そして、卒業式を終えると、
お世話になった園長先生や主治医の先生、看護婦さん、調理の叔母ちゃん、
指導員の先生、訓練の先生や先輩後輩達に別れを告げ、思い出の療護園を
後にして宮古島へと帰ってきました。











明けましておめでとうございます。new

2010年がスタートして10日が過ぎました。
ブログの更新が少し遅くなってしまいましたが、
今年もウーマクオバーのブログ宜しくお願いします。happy01

今年で52歳になってしまうウーマクオバーですが
50年という歳月が今ではあっというまに過ぎ去ったような気がします。
あの時、こうしていれば人生変わったかも。。。
なんて思いながら、過去の記憶をたどって書いているこのブログ、
結構忘れてしまった事がありますが、自分自身の生きた記録として
綴ってみたいと思います。dog

さて、高校受験の話に戻りますが

いよいよ受験当日、不安な思いで宮古高校の門をくぐりました。
今まで頑張ってきた成果を精一杯出すだけです。

初日午前のテストが終了して、昼食時間になって驚いた事がありました。sign02

3年も宮古島を離れていて分からなかったのですが、宮古島の風習で
受験の日、家族揃ってお弁当を食べるという事です。

学校にはお弁当を抱えた受験生の家族が集まって、
校庭のあちらこちらでまるで遠足のようにお弁当を広げて食べていました。restaurant

そんな風習があるなんて知らなかった私は一人食堂へ。。。

すると、校門の前でオジイが私を待っていました。
大工をやっているオジィは私を心配して、昼食を一緒にとろうと
仕事場を抜け出して来てくれたのです。

とても嬉しくて一人ぼっちの寂しさも忘れ、オジィの優しさに感謝、
オジィと2人で学校近くの食堂で昼食をすませました。

オジィ ありがとう 頑張るからねと言い聞かせながら
後半のテストに望みました。

5教科のテストも国語・英語はバッチリ!
苦手としていた数学も思ったより回答できたような気がしました。

緊張の3日間も過ぎ、後は合格発表を待つのみです。

合格しなければ、後1年から2年は宮古島に帰ることはできません。

沖縄本島に戻る私を寂しそうに見送るオジィを残し、療護園に戻ってきました。










プロフィール

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  • ウーマクオバー
  • 生後8ヶ月にポリオにかかり、右下肢マヒとなりました。中学3年間に手術とリハビリでなんとか人並みに歩けるようになり、宮古島の普通高校を卒業。兵庫県の東芝工場へ入社後、川崎へ転勤、そして結婚。身内や親戚もなく、誰も知らない横浜での生活の中で、3人の子供達は帝王切開で出産しました。横浜の団地生活も波乱ずくしでしたが、負けず嫌いの性格で何とか乗り越えて、15年前に沖縄に戻ってきました。現在沖縄の不動産会社でIT担当として日々頑張っています。沖釣りと家庭菜園が趣味。そして思い切りカラオケで歌うことでストレス解消しています。
  • http://umuza.ti-da.net/
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