一回目の手術が終わって、ギブスも足首だけと小さくなり
かかとにヒールついて、杖をついて歩けるようになりました。
車椅子から杖をつくようになると又、ベッドクラスから教室クラスへ
移動になりました。
時間割には、リハビリ授業もあり園内のリハビリ室に行き
指導員の先生の下、おのおのがリハビリをします。
私は歩行訓練や足の筋力をつけるためのトレーニングでした。
そして、中学2年に進級した5月
沖縄に大きな変化が訪れました。![]()
5月15日
沖縄が日本に変換された日です。
そうすると、今まで使っていたお金が変るということで
叔母に持っていたお小遣いをドルから円に交換してもらいました。
日本円は、毎年東京へ行っていたので珍しくはなかったのですが
当時、1ドルが360円![]()
換金されたお金を手にした時は、ビックリ!![]()
こんなんで買い物できるのかしら。。。
今まで、10セントあればパンやお菓子が買えたのに10円じゃ何も変えない![]()
1ドルで洋服も変えたのに360円じゃ服も変えない![]()
わずかな現金を手に不安がよぎりました。
こんな金額じゃ、学用品を買うお金なんてないじゃないかと
お見舞いにもらったお金や時々祖母から送られてくるお小遣いが
私の園での生活費?だったからです。
子供の私が不安を感じたくらいですから、
大人達はもっと大きな不安を抱えていたでしょうね!
とにかく、何もかもが高くなったように感じました。
そんな夏に2度目の手術が決まりました。
2度目は、アキレス腱を伸ばす手術です。
麻痺した右足首はかかとが地面に着かず、つま先で立っている
ような状態でした。
そのため、右足のアキレス腱伸ばす事でかかとが地面に着くということでした。
手術は局部麻酔で行われましたが、1回目に比べると精神的にも楽でしたので
先生と会話しながら終える事が出来ました。
手術室からストレッチャーに乗せられ笑顔で出てくる私を見て、主治医の先生も
「チューバーヤッサー」
と驚きの言葉をもらすほどでした。
沖縄の方言で「チューバー」とは「強い」という意味です。
園での生活にも慣れてきた私は、負けず嫌いの性格を
更に強さをバージョンアップさせたようです。
2度目の手術の後は痛み止めも拒否、![]()
食事も普通食を要求して看護婦さん達を驚かせていました。
そのため、回復室も早々と出され大部屋の自分のベッドに戻る事が
出来ました。(回復室は個室で退屈な場所でした)
夏休み、宮古島に帰るという目的があったので、何としても帰れるよう
主治医の先生に外泊許可をもらうためのアピールでもありました。
でも、その頃。。。
祖母が体調を崩して東京で治療をしていた事を私は気づきませんでした。

沖縄返還の時。。。
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こんにちは。ATARIMAEプロジェクト事務局のchihiroです。
沖縄返還時のエピソード、興味深く読みました。
2度目の手術、ウーマクオバーさんの元気な様子にお医者様もびっくりされたんですね。
お写真からもその様子が伝わってきます。
こんにちは!
ブログの更新いつも楽しみして読んでいます♪
復帰の当時、私は小学校4年生でした。
学校では、復帰により米軍統治下の支配から解放され、
晴れて日本人になれるような授業などもあったと記憶
しています。
私はそれらの授業よりも、日本政府から記念に沖縄の
全小学校にプレゼントされたニコニコマーク入り筆箱
と、下敷きに夢中になっていました。
そして一番の驚きは、hitomihoさんと同様に、通貨の
ドルから円に変わった事でした。
父親から・・・
「復帰直前のドルショックにより固定性の1ドル360
円から変動性の1ドル308円変わり、県内の経済が、
ひと月ほど混乱した。」という話を、私が成人してから、
聞いた記憶があります。
>スタッフchihiroさん
施設内にいたせいか、沖縄返還の時の記憶があまりないですが、物価が急に上がったような記憶だけが残っています。
>mitu♪さん
4年生ということは。。。私より○才下ですね(笑)
1ドルの価値が大きく下がり、どうやって生活するの?
という状態だったと思います。
返還されても沖縄に?沖縄の人達に何のメリットが
あったのか考えさせられました。
ただ、本土に渡る時パスポートが入らなくなっただけでしょうか。