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2009年10月アーカイブ

手術を終えて麻酔から目が覚めると母の姿があった。
なぜだか、叔父や叔母達も来ていた。

麻酔から完全に覚めていなかったせいか、会話も殆どせず
うつろな状態で眠っていましたが、夕方母が「お姉ちゃんと交代しようね」と
言って母の一番末の妹が私に付き添うことになりました。

物心ついた時から母の妹を「ネエネエ」と呼んで慕っていたので
私は母より何でも話せて甘える事ができる姉さんだ。
時には喧嘩もしたりで姉妹のように育ってきました。

実際、母が離婚した時に私は祖父母の戸籍に5女として登録されていたので
戸籍上は本当の姉妹です。面白いことに母とも姉妹になりますね(笑)

麻酔が完全に切れた時から、痛みとの闘いが始まります。
傷口がジワジワ痛み始めます。
痛み止めの注射を打ってもらいますが、一時だけです。

手術の後は水も飲むことも出来ません。
喉の渇きと傷の痛みをこらえながら回復室のベッドでようやく眠りに入った頃

ナースステーションの電話が鳴り響き、ふと目が覚めると「ネエネエ」が私の
側に来て「あんたのお母さんから電話があって、
疲れたからオバァの付き添いを代わって欲しいって」
「だから、ちょっと代わってくるね」

そう言って姉さんは、病室を出て行きました。

その翌日から誰一人私の見舞いに来ることはありませんでした。
そして、やたら看護婦さんが優しい。。。。

一週間が過ぎ、数学の先生が見舞いに来た時、私は先生にお願いをしました。
「先生、手術をした後から、お母さんも誰も見舞いに来ないよ!
きっとオバァに何かあったと思うのでお願い!
オバァの入院している病院へ様子を見に行って欲しいの」

必死にお願いする私の頼みを先生は快く引き受けて、
オバァの病院へ様子を見に行って下さいました。。。。多分

翌日、先生が来て
「病院へ行って来たけど、おばあちゃんは大丈夫だったよ!
心配しないでって!お母さん達もちょっと忙しくて顔をだせなかったのゴメンネって言っていたよ」

その言葉を聞いて私はホッとしました。
3度目の手術は結構しんどくて毎日が苦痛の日々だったのとギブスを巻かれ身動きが全くできず
寝たきりの身体は全身が痛くてたまりませんでした。
更に毎日傷口に化膿止めの大きな注射を打たれて、その痛さは拷問のようで言葉では表せません。

でも、早く回復してオバァに会いに行くことを願って回復室で一人、
天井を眺め長い一日を過ごしていました。

手術から10日たったある日、宮古島の同級生から一通の手紙が届きました。

よしこちゃんからだ。。。。
家がすぐ隣で幼稚園から毎日一緒にいるほど仲良しの友達です。

手紙を読んでいるうちに私は泣き崩れてしまいました。
手紙には大好きなオバァが死んでしまったと。。。。
オバァが亡くなって私が悲しんでいるだろうと思い、慰めと励ましの手紙だったのです。

手紙を読んでも絶対に信じられませんでした。
ようやく回復室から自分の病棟に戻った時、先輩達から慰めの言葉を受けても信じることができず
私のアルバムからオバァの写真が抜き取られていたことがショックでした。

そんな中、3学期が始まりましたが、ギブスを巻かれた身体はベッドから起き上がる事もできません。ベッドごと移動してベッドクラスで横になったまま授業を受けます。

不思議な事に毎朝、耳元で
「仁美ちゃん、いつまで寝ているの!学校に遅刻するでしょう。早く起きなさい」
とオバァの声がハッキリと聞こえて目が覚めるのです。

オバァはいつでも私の事を「仁美ちゃん」と呼んでいました。
療護園に入ってからも時々手紙が届き文章の始めは「私の可愛い仁美ちゃんへ」と
書かれていました。

その声を聞いた時、オバァは私の中で生きているんだ、亡くなってしまったのかもしれないけど
天国に行っても私の事をいつでも見守ってくれているんだから、何時までも悲しんでいてはいけない天国に行っても心配させちゃダメだとオバァの死を受け止める事が出来ました。

49日が終わった頃、ようやく母が私の所に来て
「あなたに話があるの」と真剣な顔をして話はじめようとしたので
「分かっている、オバァが死んだんでしょう」
「全部知っているよ!でも毎日夢の中にオバァが出てくるから大丈夫!泣かないよ」

と答えると母はビックリして!

「本当にあんたは強いね?オバァが夢に出て来るなんて羨ましいよ」
「お母さんの所には一度も出て来ないよ!それだけあんたはオバァに愛されていたんだね」

ちょっと悔しそうに話していました。

母は東京へ帰る前に私にオバァが亡くなった事をどう告げたらいいのか
ずっと悩んでいたそうです。

先に私が言ったことでホッとしたのと私が元気だったので安心して東京へ戻れると言い残し
「あんたのアルバムからオバァの写真を一枚取ったからね。
とてもいい写真だったので遺影の写真として使ったよ」

アルバムから写真が亡くなっていた訳が分かりました。

そして、手術後の身体を気遣って私に嘘をついた先生は

「ゴメンネ!あなたから病院へ行って頂戴とお願いされた時はドキッとしたよ。
どう答えていいのか悩んだけど、あの時は本当の事を言わない方がいいと思って嘘をついてしまった。悪く思わないでね」


「先生、ありがとう!」

先生や友達周りに人達が私に気遣い心配していた事を嬉しく思いました。

33回忌を終えた今でも、私の心の中にはオバァが生きています。

おばあちゃんと.jpgのサムネール画像




ドキドキの運動会を終えてしばらくたったある日

オバァが宮古島から沖縄本島那覇の琉大付属病院へ入院する事になりました。

琉大付属病院は、今は移転して別の場所にありますが、
当時は那覇市寄宮にありました。
現在の県立那覇病院です。

療護園から歩いて行けるほど、すぐ近くにありました。

何の病気は聞かされていなかったのですが、
オバァからは「胃が少し悪いらしい」と聞いていました。

私は、主治医の先生の許可をもらい、授業が終わると毎日のように
オバァの所へ出かけて消灯時間まで付き添っていました。

毎日、オバァといろんな話をしながら看病していたのですが、
オバァが日に日に弱っていくのが心配でたまりませんでした。

そんな時、私の3度目の手術の日が決まりました。

「オバァ? 手術の日が決まったよ!」
「でも。。。手術したらオバァに会いに来れないし、
オバァの事が心配だから先生にお願いして
手術を後に伸ばしてもらおうね?」


私がそう言うと

「仁美ちゃん!ダメだよ! 
オバァは仁美ちゃんの足が一日も早く治って欲しいと思っているんだから
オバァのために手術を後回しにしたらダメだよ!
チャンと先生のゆう通りに手術を受けなさい」


「オバァは大丈夫だよ! 仁美ちゃんと、どっちが先に元気になるか頑張ろうね!」
「手術の日には行けないけど、オバァが仁美ちゃんの悪い病気は
全部天国に持って行ってあげるから頑張りなさいね」
「手術が成功するよう、オバァは神様に祈っているから。。。」

そう言って、手術をしぶる私を励ましてくれました。

昭和47年12月14日。。。3度目の手術の日。

右足の膝が曲がっていたので、膝を伸ばす手術です。
今までより、少し大きな手術になると聞かされました。

この日は、珍しく東京から母も来ていて、私の手術に付き添ってくれるというのだ。。。
今まで一度も来てくれなかったのに不思議に思いながらも、手術の不安もあったので
少し嬉しくもありました。

手術前日は外出できないので、2日前の12月12日
オバァに、手術頑張ってくるね?と別れたのがオバァとの最後の会話となりました。

オバァと.jpg
中学校2年の夏休み、やっと宮古島への里帰りの許可がでました。

お盆の時期もあって一週間程の里帰りでしたが、私にとっては
この日を待ち焦がれていました。

でも、東京で病気治療中のオバァの回復次第ということもあって
がっかりしていましたが、

オバァが元気になって宮古に帰ったという
知らせがあり私の希望がかなえられることになったのです。

アキレス腱の手術を終えた後で、まだギブスを巻いていましたが
ギブスにヒールをつけて、片杖で歩く事ができるようになっていたので
主治医の先生も許可してくれました。

約、1年半ぶりの里帰りでした。

友達に会える嬉しさ、生まれ育った家に戻れた嬉しさでいっぱいでした。

友達も私が帰ってきたことを知り、会いに着てくれました。
学校のグラウンドで部活に励む、同級生や先輩達をいつまでも眺めていました。

お盆には校庭にやぐらが出来て、部落中人達が集まって盆踊りを楽しんで
いました。この日だけは夜遊びOKです。

ただし、盆踊りが終わると怖ーい叔父さんたちがパトロールを始めるので
夜遊び終了です。
おしゃべりも尽きず名残惜しいのですが、大人しく友達と別れて帰ります。

療護園で周りに気をつかいながら生活していたので家に帰った安心感と
開放感にすっかりオバァに甘えていました。

でも、今までのオバァじゃない。。。。

元気もなく、毎日友達と遊びに出ている私に厳しい口調で

「仁美ちゃん、いつまでもオバァが何でもやってあげられるわけじゃないよ」
「自分で何でもやりなさいね!」


と叱りつけました。

病み上がりのオバァに甘えすぎた自分に反省したものです。

しかし、オバァが私に言った言葉の意味が別にあるとは思いませんでした。

この一週間の里帰りが、オバァと過ごす最後の夏になるなんて
思ってもみませんでしたから。。。



楽しい夏休みを過ごし沖縄本島に戻った私は、再び療護園での生活が始まりました。

園での生活で私の心にちょっとした変化がおきていました。

一つ上の先輩に声をかけられるのが嬉しくて、毎日がドキドキ。。。

これって! もしかして。。。heart04

先輩の部屋は洗面所とナースステーションに行く途中にあって

洗面所に行くにもドキドキ。。。

用もないのにナースステーションに立ち寄ったりと
毎日がドキドキ弾むような日を送っていました。

そんな先輩も私を意識して、園内ではうわさのカップルに
なっていました。

でも。。。。

今では考えられませんが、お互い意識し始めたとたん

目をあわすこともできず、話をすることもできなくなって
鉢合わせになると顔を真っ赤にして逃げ出すしまつ。。。

話をしようと洗濯場に呼び出されても、2m近くはなれて
一言も話す事ができなくて、こんな中で手紙の交換だけが始まりました(笑)

誕生日には、大きなぬいぐるみが届き、ビックリ!

お返しに憶えたての編み物でチョッキを編んでプレゼントしたりと。。。。

今思い出してみると恥ずかしいですね。。。

運動会のフォークダンスでは手をつなぐことも恥ずかしくて、
先生達に冷やかされた事を思い出します。



国吉君と.jpg

この写真は、体育の先生からのプレゼントです。 思い出のツーショットlovely
緊張して、心臓はバクバクでした(笑





一回目の手術が終わって、ギブスも足首だけと小さくなり
かかとにヒールついて、杖をついて歩けるようになりました。

車椅子から杖をつくようになると又、ベッドクラスから教室クラスへ
移動になりました。

時間割には、リハビリ授業もあり園内のリハビリ室に行き
指導員の先生の下、おのおのがリハビリをします。

私は歩行訓練や足の筋力をつけるためのトレーニングでした。

そして、中学2年に進級した5月

沖縄に大きな変化が訪れました。new

5月15日

沖縄が日本に変換された日です。

そうすると、今まで使っていたお金が変るということで
叔母に持っていたお小遣いをドルから円に交換してもらいました。

日本円は、毎年東京へ行っていたので珍しくはなかったのですが

当時、1ドルが360円coldsweats02

換金されたお金を手にした時は、ビックリ!sad
こんなんで買い物できるのかしら。。。

今まで、10セントあればパンやお菓子が買えたのに10円じゃ何も変えないweep

1ドルで洋服も変えたのに360円じゃ服も変えないweep

わずかな現金を手に不安がよぎりました。

こんな金額じゃ、学用品を買うお金なんてないじゃないかと

お見舞いにもらったお金や時々祖母から送られてくるお小遣いが
私の園での生活費?だったからです。

子供の私が不安を感じたくらいですから、
大人達はもっと大きな不安を抱えていたでしょうね!

とにかく、何もかもが高くなったように感じました。

そんな夏に2度目の手術が決まりました。

2度目は、アキレス腱を伸ばす手術です。
麻痺した右足首はかかとが地面に着かず、つま先で立っている
ような状態でした。

そのため、右足のアキレス腱伸ばす事でかかとが地面に着くということでした。

手術は局部麻酔で行われましたが、1回目に比べると精神的にも楽でしたので
先生と会話しながら終える事が出来ました。

手術室からストレッチャーに乗せられ笑顔で出てくる私を見て、主治医の先生も

「チューバーヤッサー」 

と驚きの言葉をもらすほどでした。

沖縄の方言で「チューバー」とは「強い」という意味です。

園での生活にも慣れてきた私は、負けず嫌いの性格を
更に強さをバージョンアップさせたようです。

2度目の手術の後は痛み止めも拒否、paper
食事も普通食を要求して看護婦さん達を驚かせていました。

そのため、回復室も早々と出され大部屋の自分のベッドに戻る事が
出来ました。(回復室は個室で退屈な場所でした)

夏休み、宮古島に帰るという目的があったので、何としても帰れるよう
主治医の先生に外泊許可をもらうためのアピールでもありました。

でも、その頃。。。

祖母が体調を崩して東京で治療をしていた事を私は気づきませんでした。

教室前廊下で.jpg

プロフィール

  • プロフィール画像
  • ウーマクオバー
  • 生後8ヶ月にポリオにかかり、右下肢マヒとなりました。中学3年間に手術とリハビリでなんとか人並みに歩けるようになり、宮古島の普通高校を卒業。兵庫県の東芝工場へ入社後、川崎へ転勤、そして結婚。身内や親戚もなく、誰も知らない横浜での生活の中で、3人の子供達は帝王切開で出産しました。横浜の団地生活も波乱ずくしでしたが、負けず嫌いの性格で何とか乗り越えて、15年前に沖縄に戻ってきました。現在沖縄の不動産会社でIT担当として日々頑張っています。沖釣りと家庭菜園が趣味。そして思い切りカラオケで歌うことでストレス解消しています。
  • http://umuza.ti-da.net/
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