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2009年9月アーカイブ

中学1年の冬、暮れも押し迫った12月に
一回目の右足の手術が行われました。

手術の内容は、右足首の固定術

右足首がぐらぐらしていて、時々ぐにゃっとひっくり帰ったりするため
脛の部分から骨を削り取り、足首、くるぶしの下に骨を埋め込み固定する手術でした。

骨を固定するにあたり金属で固定するのですが、数ヵ月後に又その金属を取り除く手術が
必要となります。
しかし、私の場合、女の子の足の傷が大きくなっては可愛そうということで再度傷口を開くことが
ないよう銀の金具を入れたようです。

今でもレントゲンに小さく写っています。

手術は、全身麻酔で行われましたが麻酔が切れた後の痛みはきつかったです。

目が覚めると、回復室のベッドの上で足の付け根まで板で固定され包帯が巻かれていて
点滴の針がずれないように右腕も板に固定されていました。

あの頃の点滴の針はチョッと動いただけでも血管からもれて大変でした。

寝返りもできず、一日中ベッドに縛り付けられた状態で2・3日は天井とニラメッコ状態
朝昼晩と痛い注射を2本も打たれて、ただひたすら耐える毎日でした。

冬休みに入ると正月を自宅で迎えるため、園内の子供達が嬉しそうに迎えに来た家族と
帰っていくなか、私はベッドの上で羨ましそうに見送っていました。

大晦日、ガラーンと静まり返った園で数人の園児達とテレビを見ながらお正月を迎えました。

お正月の朝、調理のおばさん達も休みなので作り置きされた冷たい食事を食べながら
暮れに手術をした先生を恨んだものです。

傷口の抜糸が済むと骨が固定されるまで、ギブスを巻かれて車椅子の生活が始まりました。

何が大変かというとお風呂入る時苦労しました。

ギブスを巻かれた足にビニールを巻きつけぬれないようにするのですが、
十分にお湯がかけられないので寒さに震えながらの入浴でした。

又、定期的に足の様子をみるためギブスをはずすのですが、これがとても怖い

小さな電動ノコギリで切っていくのを見ながら足が切れるのではないかと震え上がったものです。

ギブスを巻く時に綿を巻くので綿に絡まると電動ノコが止まるのですが、足がかゆい時にものさしや棒を突っ込んで足をかいていた所の綿が薄くなっていたのです。

実際、かすり傷も。。。。

手術より怖い、ギブスはずしでした。


校庭で美術の時間に、ベッドクラスの 同級生と写真撮影
美術の時間中庭で.jpg



沖縄整肢療護園での生活がスタートしました。

授業は、ベッドクラスと教室クラスに分かれていて
私は、歩くことができるのでグラウンドを挟んだ教室で
授業を受けることになりました。

今まで、40人の大勢のクラスで授業を受けていたので
少人数のクラスでの授業はとても緊張しました。

中一二学期.jpg

でも、すぐに皆と仲良くなることができ新しい生活にも
すぐになじむ事が出来ました。

一番辛かったのは、夕食が夕方5時半。。。
消灯時間が9時でしたが、育ち盛りですお腹が空いて大変でした。

というのも当時は財団法人の運営のため財政が厳しく食事は
とても質素でした。

毎日、モヤシ料理

朝は味噌汁にモヤシ、昼もおかずにモヤシ、夜もモヤシ炒め

月に2度程カレーライスの日がありましたが、お肉の姿は見たことが
なかったような気がします。


食堂.jpg

食べ盛りの子供達が大勢でしたが、お代わりも殆どありませんでした。

空腹をこらえて、面会に来た叔母に食べ物を差し入れてもらい
それも小さな子供達が寝静まってから、暗闇でこっそり食べていました。

たまに、園をこっそり抜け出して近くの店に夜食を買いに行ったりも。。。。

病室で誰かが誕生日だとすると、看護婦さんに許可をもらい消灯後
他の子供達にばれないように小さな明かりの中で、誕生日会&ラーメンパーティを
開いたものです。

インスタントのラーメンが人気で今はなくなってしまいましたが
オキコラーメン。。。

夕方食堂からどんぶりを借りて、お湯は看護婦さんにお願いして
給湯室のお湯を分けてもらい、ズルズルと食べるラーメンの味は格別でした。

そんな生活にもなれた頃、最初の手術の日が決まりました。

それも12月中旬!

お正月は宮古島で過ごそうと楽しみにしていたので
ガッカリでした。

主治医の大城先生は身体も大きくて怖い先生なので
正月帰りたいなんて言ったら、大きな目で睨まれてしまいます。

足が少しでも早く治るためには我慢するしかありません。

手術の日が近づくのが毎日ドキドキでした。







中学1年の2学期、新しい生活がスタートしました。

沖縄整肢療護園へ入園です。

そこで、私の右足の治療とリハビリが始まるのです。

園には大勢の子供達が入園していました。

中には、2・3歳くらいの小さな子供達もいました。

車椅子に乗って園内を走り回っている子や義足や杖をついている子供達もいて
自分以外の障害者の人達を大勢見るのは初めてでした。

私の部屋は先輩ばかりの6人部屋でした。

部屋といってもドアがなく、廊下からは丸見えの部屋です。

各ベッド周りにカーテンがついているだけで着替える時だけ
隠せるようになっていました。

ベッドの側の小さなロッカーが荷物入れで、シーツの交換も
全て自分でやらないといけません。

食事は、食堂へ行き大勢の園児達と一緒に食べるということで
何もかもが始めての集団生活がスタートしました。






プロフィール

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  • ウーマクオバー
  • 生後8ヶ月にポリオにかかり、右下肢マヒとなりました。中学3年間に手術とリハビリでなんとか人並みに歩けるようになり、宮古島の普通高校を卒業。兵庫県の東芝工場へ入社後、川崎へ転勤、そして結婚。身内や親戚もなく、誰も知らない横浜での生活の中で、3人の子供達は帝王切開で出産しました。横浜の団地生活も波乱ずくしでしたが、負けず嫌いの性格で何とか乗り越えて、15年前に沖縄に戻ってきました。現在沖縄の不動産会社でIT担当として日々頑張っています。沖釣りと家庭菜園が趣味。そして思い切りカラオケで歌うことでストレス解消しています。
  • http://umuza.ti-da.net/
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