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2009年7月アーカイブ

小学校5年生だったでしょうか。。。

ある日学校から帰ると、台所でオバァが呆然と座り込んでいました。

いつもと様子が違うオバァに

ただいま? オバァ?どうしたの?

振り向いたオバァが握り締めていたのは、一通の電報でした。
当時は、各家庭に電話がなかったので、緊急の連絡は電報で知らせていました。

オバァは涙を流しながら、

トシオが、トシオが怪我したsign01

五体満足に生んで育てたのに何でこんな事に。。。。

私は号泣するオバァの背中を抱いてあげることしか出来ませんでした。

東京で働いていた母の弟、叔父が仕事中機械に右腕を挟まれて
右手首を切断したという連絡だったのです。

命に別状はありませんでした。

あの時のオバァの悲しむ姿は今でも忘れません。

私はその時、

オバァを悲しませてはいけない

そう心に誓った事を覚えています。

数ヵ月後、病院を退院した叔父が右手に義手をつけて
宮古島に帰ってきました。

その手を見たオバァの悲しみでいっぱいの顔

でも、叔父のこれからのために精一杯明るく迎えていました。

気丈な叔父は、右手を無くした悲しみを乗り越えて
左手の訓練と義手を使って何でもできるように努力していました。

しばらく、石垣島へ渡り一人頑張っていました。

私もそんな叔父の姿に勇気をもらいました。

ちなみに私に自転車を買ってくれたのは、この叔父です。

叔父から沢山の事を学びました。



私を育ててくれた、祖父母は明治生まれで「頑固なオジイ」と
「働き者のオバア」でした。

私が生まれてまもなく離婚した両親に代わって、祖父母の戸籍に入れて
末っ子として育ててくれました。

オジイは戦争中は、商船に乗っていたということで戦場には行きませんでしたが、
物資輸送中に魚雷が当たって海の底に投げ出され、あやうく命を落とすところだったそうです。

運よく助かったオジイは、船を降りた後は散髪や大工と畑仕事をこなしていました。

唯一の楽しみは、仕事が終わった後の泡盛。。。。

たまに、残ったご飯で「濁酒」を造って、お砂糖を入れたものを飲まされた事があります。

私が酒が強いのは、オジイの濁酒に鍛えられたのかもしれません(笑)

器用なオジイは、私の散髪や勉強机・椅子造り、夏休みの工作? 
何でもやってくれました。

そして、食事の時は魚の骨を綺麗に取り除き、ミカンは皮を綺麗にむいて食べさせてくれたり
お肉は、脂身は自分が食べて赤身は私に食べさせるという程の可愛がり用でした。

その反面、オジイのお父さんが教師だった事もあって、躾けに関してはとても厳しい人でした。

行儀作法、言葉使いに関しては目が光って「鬼」と感じる程に厳しく躾けられました。

おかげで叔父・叔母や母も含め私達家族は、宮古の方言は聞き取る事が出来ても
話す事が出来ません。

オジイは、方言しか話せないでいると大人になって恥ずかしい思いをするし、嫁に行くときも
苦労するから、ちゃんとした日本語を話しなさいと常に言って聞かされていました。

高校を卒業して宮古島を離れて就職した時に、改めてオジイに育てられて良かったと実感しました。

沖縄から本土へ就職した人達の殆どが、言葉の壁で大変苦労したそうです。

叔父や叔母もオジイの厳しい躾けのおかげで、就職先での言葉の苦労は無かったと
感謝していました。

又、オジイは部落で子供が生まれると命名をお願いされたり、書道が得意なので
自治会や学校から賞状等を書いてほしいとお願いされたりで、部落では有名な
オジイでした。

そんなオジイが私は大好きで、いつでもどこでも後をついて回りました。

そして、部落でアチコチからお祝いの席に呼ばれる事も多く、
オジイが大好きなお酒を飲みすぎないようにと、オバアは必ずといっていいほど、
私をお供につけました。

私が一緒に行けば、遅くまで飲む事もないし、途中、寝てしまった私を
負ぶって帰らなくてはいけないので、飲みすぎることもありません。

さすが、明治生まれのオバアです。

亭主関白のようにみせて、しっかりと操縦していました。

そんな私とオジイは一心同体。。。

私の中に、オジイのいない世界は考えられませんでした。

14年前に91歳で他界してしまいましたが、今でも心の中にしっかりと
オジイは生きています。

オジイとオバアに育ててもらった事をとても感謝しています。


小学校4年.jpg

おばあちゃんと.jpg




プロフィール

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  • ウーマクオバー
  • 生後8ヶ月にポリオにかかり、右下肢マヒとなりました。中学3年間に手術とリハビリでなんとか人並みに歩けるようになり、宮古島の普通高校を卒業。兵庫県の東芝工場へ入社後、川崎へ転勤、そして結婚。身内や親戚もなく、誰も知らない横浜での生活の中で、3人の子供達は帝王切開で出産しました。横浜の団地生活も波乱ずくしでしたが、負けず嫌いの性格で何とか乗り越えて、15年前に沖縄に戻ってきました。現在沖縄の不動産会社でIT担当として日々頑張っています。沖釣りと家庭菜園が趣味。そして思い切りカラオケで歌うことでストレス解消しています。
  • http://umuza.ti-da.net/
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